「聖なる神の子が生まれる」 2018.12.16
 ルカによる福音書 1章26~38節

 今日は、昨年に続き、午後に金城学院中学校ハンドベルクワイアの皆さんによるハンドベルコンサートが開かれます。ハンドベルクワイアの皆さんが午前中の礼拝から出席しておられます。そのことを感謝しつつ、待降節第三主日を迎えた中で、救い主イエス・キリストのご降誕を予告する天使ガブリエルによる受胎告知の場面から、神のなさったこの素晴らしい御業について聞きたいと思います。

1. クリスマスの祝い方
ところで皆さんは、どうしてクリスマスを祝うのでしょうか。少し言い方を変えると、何故クリスマスは世界中でいわゆるお祭りとして行われるのでしょうか。どうしてこれほどまでの行事として行われるのでしょうか。特に日本ではイエス・キリストを特に信じているわけでなくてもクリスマスが祝われています。プレゼントをいただいたり、ケーキを食べたり、パーティを開いたり。なぜサンタクロースが登場して世界中でプレゼントを配るのでしょうか。考えてみると、もしこの世からクリスマスがなくなったら随分寂しくなるでしょう。もしも年末のこの時期、世の中でクリスマスケーキが全く売られなくなり、クリスマスセールもあらゆる店からなくなり、あちらこちらにあったクリスマスツリーもなくなり、サンタクロースも登場しない、クリスマスソングも歌われない、どこにも飾り付けがなされないとなったらどうでしょう。世の中の雰囲気は相当に変わるでしょう。この時期になると教会では、クリスマスは教会で祝いましょう、というような呼びかけを町の人々にするようになります。本当のクリスマスを教会でお祝いしましょう、とも呼びかけたりします。では、クリスマスの祝い方はどうあるべきなのでしょうか。世の中のクリスマスをただ祝う、というやり方は、間違っているのでしょうか。確かに、イエス・キリストが不在のクリスマス、誕生物語抜きのクリスマス、救い主誕生への感謝なしのクリスマスはクリスマスの祝い方としてはふさわしくありません。しかし、クリスマスは喜ばしいものである、という一点についてだけは、世の中は正しいと言えます。クリスマスは救い主が誕生された時だから、喜ばしい時、喜ぶべき時なのだ、ということを単純にこの世界は示し続けてきたのです。それは神がそのように導いて来られたから、と言えるかも知れません。

2. おとめマリア  ここには、救い主イエスの母となったおとめマリアが登場します。彼女は、これから一人の男の子を産むことになりますが、古今東西の世界中の女性たちが、誰も経験したことのない出産をすることになります。それは特殊な産み方をするというのではなくて、特別な方、世界にまたとない男の子を産むことになるということです。
 ここに6か月目とありますが、それはその直前に書いてある、マリアの親戚のエリサベトという女性が身ごもった時からのことです。このエリサベトという人も神の恵みによってヨハネという人の母親になるのですが、彼女はアリアよりも年配で、既に結婚している人、しかも既に年老いていました。  年老いたエリサベトが子供を宿したことだけでもこれは通常は起こらないことでしたが、まだ結婚もしておらず、男性との関係をもったことのないマリアが男の子を産む、ということは全く通常はあり得ないことでした。そして、まだ結婚していないというだけではなく、生まれてくる子どもが、神の子であるということが、マリアの出産が後にも先にも例のないとんでもない出来事だった理由です。
 当時のユダヤの国の慣習では、男子は18歳、女子は12歳で婚約したそうです。ここにはマリアの年齢は書かれていませんが、その慣習によればマリアはまだ十代前半の少女、今日ここに来ておられる中学生の皆さんと大して変わらない年齢だった可能性があります。彼女は、まだ若かったとは言え、ユダヤで育った娘として神を信じて生活していました。自分の所に天使が現れるということで大変驚き戸惑ったはずですが、それでも天使が言った言葉の意味について考え込んだとあります。自分がおめでたく、恵まれていると言われており、主、即ち神が共におられる、と言われたことの意味を思い巡らしたのでした。皆さんも、何か思いがけないことが起こった時には、考え込むということはないでしょうか。このマリアという人は、若いですけれども、とても良く思いを巡らし、考える人でした。そして自分に起こった出来事を、神様からのこととして受け止める信仰を持っていました。私たちは身の周りで、特に自分に起こって来る出来事ついていろいろと考えることがありますが、それを単に偶然とかたまたまというふうにだけで捉えないで、その意味は何だろうか、と考えてみる。神は何をお考えなのだろうかと考え、そして祈ってみる。これは神を信じる者にできるとても素晴らしいことです。

3.聖なる者、神の子と呼ばれるイエス
さて、マリアが天使から言われたことから、三つのことがわかります。一つは、マリアが男の子を産むのはこれから結婚するヨセフによってではなく、神の聖霊によるということ。それゆえ、聖なる者と呼ばれること。二つ目は、この男の子は神の子と呼ばれること。三つ目に、マリアがこの天使の告知を受け入れたことです。
この男の子とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストの誕生には、これだけの意味があるということです。しかし、イエスがどれだけ聖なる者であり、神の子と呼ばれ、永遠の王である、と言われてもそれが自分とどんな関係にあるのか、ということを考えた時に、今一つピンとこない、という人がいるかもしれません。その問題は、そもそも私たちがこうして日曜日に一つの教会堂に集まって、こうして礼拝をしている、ということ自体、何故なのか、という問題です。どうして世界中でクリスマスを祝うのでしょうか。
やっと先ほどの問題に帰ってきました。どうして祝うのでしょう。何が喜ぶべきことなのでしょう。マリアは、生まれて来る男の子に、「イエス」と名付けるように天使から命じられました。そこに大事な意味が隠されています。天使が命じたということは、生まれる前から、神が名前を決めておられて、その名前を付けるべきだからであり、是非ともその名前をつける必要があったからです。皆さんも自分の名前が付けられた理由を、親御さんから聞いたことがある人もいるでしょう。名づけにはいろいろなやり方があります。こんな人になってほしいという親の願いとか、良い響きであるとか、美しい漢字、女の子だったら優しい印象、男の子だったらたくましい印象、あるいはただ呼びやすいとか、親から一文字取ったりしたとか。とにかくいろいろです。しかしイエスの場合は違います。イエスとは「主は救い」とか「救い主」とかいう意味を示しています。
神はイエスに世の救い主になってほしいから「イエス」と名付けたいのではありません。生まれた時から、救い主であり、救い主としての生涯を生きるべき者として定められているのです。私たち人間を神に結びつけ、私たちの中にある、神に喜ばれない悪しきもの、「罪」と呼ばれる闇を取り除くために生れたのです。だからイエスは聖なる者、神の子と呼ばれます。イエスは赤ちゃんとして生まれる前から、神の子として存在していました。聖なる者、とは、文字通りに清く罪がない聖なる者ですが、同時にそれは特別に選ばれた者ということを示します。神が選ばれた器として、イエスにしかできないことをされるのです。それが後に起こる十字架の死と復活です。私たち罪人のために十字架で償いのために死なれ、しかし罪の力に打ち勝って復活される。そういう、他の人には決してできないことを、全人類の中でただ一人成し遂げられたのがイエス・キリストです。
そんなにすばらしい方を産むことになるから、天使はマリアに向かって、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」といったのです。神にできないことは何一つありません。そしてマリアは、自分に与えられたとてつもなく大きな恵みを感謝して受け入れたのでした。「わたしは主のはしためです。」これは「わたしは神に仕える女です」という意味です。神様がそう言われるのなら、そうなるでしょう。それを信じます。という信仰をマリアは持っていました。私たちも、世に生きる人間である以上、この救い主が必要です。マリアの信じていた同じ神が、今ここにいる私たちにも語っておられます。この、救い主としてこの世に生まれたイエスをあなたも信じなさい。そうすれば、救われるのだ、と。私たちもマリアにならって、主なる神の御言葉が自分の身に成るようにと祈りましょう。

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