「道、真理、命を求めて」2018.11.25
 ヨハネによる福音書 14章1~14節

 私たち人間は、この世に生を受けて生まれてきて以来、常に何かを求めて生きているのではないでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんは、教えられなくても生きるために必要なお乳を求めようとします。人に限らず生きているものは、生存本能のようなものがもともと備わっていて、自覚していなくても生きてゆくために必要なものを求めるようにできています。できている、というのは、神がそのように私たちを造られた、と私たちは信じているからです。今日は、私たちが求める多くのものの中で、本当に必要なものは何なのか、それをどうやって求めるのか。そのことを今日、私たちは聖書から教えられています。
さて、私たちは生まれた時から、命を維持するために必要な栄養分を求め始めるわけですが、人間はただ食べて飲んで寝るだけの存在ではないので、だんだんと言葉を覚えたり、食べ物以外の者を求めたりするようになっていきます。もちろん他の動物にもそのような行動はあると思いますが、人間が求めるものは、動物とは桁違いに多いですし、次元の違うものがどんどん増えていきます。知識を求めることから始まって、この世界や人間などについて、その意味を考え始めたりもします。私たちに必要な食糧、生活をよりよくしてゆくための知識などは教えられなくても求めてゆくのだと言えますが、では、人が求めるべきなのに求めていないものがあるでしょうか。
私たちの生活の中でも、例えば健康を維持するためにあるいは病気を治すために、今用いているものよりももっと良いものがあると知っていれば、私たちはそれを求めるでしょう。しかし、そういうもっと良いもの、あるいは最善のものを知らなければ、それを求めずにいることになります。誰かが教えてくれなければ、私たちはいつまでもそれを求めることをしません。自分でも求めるかも知れませんけれども、特別な入手方法がなければ、求める気持ちはあっても、それを手にすることはできません。

1.イエスは道である
先ほど朗読したヨハネによる福音書14章には「イエスは父に至る道」という見出しがついています(見出しは聖書本文ではありません)。それは6節でイエスが言われたことです。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。まず「わたしは道である」と言われました。イエスという道は、父のもとへつながる道だというのですが、父とは、神のことです。イエスは神の子と呼ばれる方です。ですから神はイエスの父である、ということになります。そしてイエスは、もし神のもとに行きたいのなら、イエスという道を通らないと行くことはできないというのです。
さて、このような道について、私たちはほかで聞いたことはもちろんありません。もちろん、普通の学校ではそんなことは教えてくれません。小学校では、車の通る車道と、人の歩く歩道の区別は教えても、神のもとへ行く道は教えてくれません。中学校でも高等学校でもそれは同じです。キリスト教主義の学校なら教えてくれます。
どちらにしても、私たちは生まれながらには、神に至る道を求めるなどということは自分から求めたりはしないのです。それを求めるべきである、ということすら知らないと言えます。何かもっとよい人生、もっと良い生き方はないだろうか、と求めることはあるかもしれません。しかし、求めるべき所へ正しく求めることができない。これが人間の現実である、これが聖書の教えているところです。人間は何か漠然ともっと良いものを求めるのだけれども、自力でそれを見つけ出して、真直ぐにそこに至ることができないのです。
そういう人間に対して、イエスは、御自分こそ神に至る道なのだ、と言われるのです。これは実に大胆な発言です。自分以外のものでは、神に至ることはできない。言い換えれば、イエスによらなければ、神を正しく知ることもできない、と言うのですから。言い換えれば、イエスを知らずに神を知ることは不可能。神を知りたければ、まずイエスを知りなさい、ということになります。私たちは自分が生まれる前の事は何も知りません。自分がどこにいた、などと言える人もいません。しかし、イエスは違いました。ご自分がこの世に生まれる前から、御自分が神のもとで、神と共にいたことを自覚しておられました。もしイエスがそれらのことを作り話としてでっちあげ、人々を惹きつけようとしていたのだとしたら、そんな教えはいずれぼろが出て、今日に至るまで世界中で大きな影響を与え続けることなどできなかったでしょう。それに何よりも、これまでイエスのこの言葉「わたしは道である」を信じてその道を歩いてきた人は数限りなくいます。私もその一人です。その道を歩くということは、イエスを信じ、その語った言葉を信じ、その力に信頼して生きてゆくことです。イエスが歩かれた十字架への道は、自分のためであったと信じ、イエスは自分のために死んでくださったのだと認めて、それを感謝して受け入れることです。イエスは、私を信じる者に永遠の命を与えると約束してくださいました(ヨハネによる福音書10章28節)。

2.イエスは真理である
 そのイエスは、御自分が真理である、とも宣言されました。これまた大変な発言です。一人の、普通の人間の口から出て来るべき言葉ではありません。なぜなら私たちは何が真理であるか、などと誰も知らずに生まれてきたからです。仮に、ある真理を学んで知ったとしたら、あくまでもそれは真理を教わったものであり、その人自身が真理であるなどということはあり得ません。 ところがイエスはご自分が真理であると言われます。そういうことは人間では言えないとなれば、これを口にする人は、大嘘つきか、単に思い込んでいるだけか、本当に真理であると言える方か、三つの内に一つです。現代に生きている私たちは、この三つの内のどれが本当か確定するための科学的方法を持っていません。しかし、それを確かめることはできます。イエスの言葉を信じて生きてゆく時、ああ、イエスが言われたことは本当だ、この方は嘘つきなどではない、思い込んでいるだけの愚か者でもない。単なる普通の人間ではなく、御自分の内に真理を持ち、御自分こそ真理だと断言できる神に等しい方だ、と。イエスがもし、普通の人間であって、長い修行の末に真理を悟ったというのであれば、「わたしは真理である」とは言えないはずです。イエスが人をだますペテン師でないことは、イエスを信じて生きてゆくことでしかわからないのです。そうすることでしか、わからないのですが、そうすればわかるのですから、これは幸いです。そして聖書に記されたイエスの言動がそれを証ししています。私たちはただ闇雲に信じろとは言われていません。聖書が、イエスは真理である、という事実を証ししているのです。

3.イエスは命である
 イエスは、道であり、真理であるからこそ、御自分で誰かに命を授けることが出来るお方です。これもまた、単なる人間にできることではありません。しかも永遠の命を授けることができます。イエスは言われました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も私の手から奪うことはできない」(ヨハネによる福音書10章27、28節)。
 永遠の命とは、単にいつまでも永久に生きているということだけではありません。もし永久に生きているとしても、真っ暗闇の中に放り出されて永久に生きているとしたらどうでしょうか。それは恐ろしいことです。カプセルのようなものに入れられて、宇宙空間に放り出されて、そのまま永久にそうしていろと言われたらそんなに恐ろしいことはありません。それなら死んでしまって、何も感じなくなった方がよい、と普通は思うわけです。
 しかし人間の魂は体が死んでからも残り続ける、というのが聖書の教えです。この世を去ったら、いわゆるあの世がある、と。だとしたら、祝福された、素晴らしい命の内に行きたいと願うのは人として当然のことです。そして永遠の命というのは、神と共にずっといられる、という命です。神が共におられるのであれば、私たちには不安も、苦しみも、恐れもありません。なぜなら、神と共にいる、ということは神の愛の内にいる、ということだからです。イエスは神の子であり、神御自身ですから、御自分を信じる者に永遠の命を与えることが出来るのです。
 しかし、人は神に対して背を向けて、罪を犯して生きているので、自分自身では、永遠の命を受け取る資格を持っていません。そんな私たちのためにイエスは十字架にかかって私たちのために罪の償いをしてくださいました。だからその償いを受け取る人は、永遠の命を受けられるのです。
 神様は、私たち人間に対して、このような道であり真理であり命であるイエスに求めよ、と強く勧めておられます。ほかに求めることをしないで、神が備えてくださったイエス・キリストという神の御子に求めなさい、というのです。この方に求めるならば必ずいただくことができます。必ず神に至り、必ず真理を悟らせてくださり、必ず永遠の命をくださる。なぜなら、イエスは十字架で私たちの罪の償いをなさって死なれた後、三日目に復活されて罪の力を滅ぼし、人を悲しませる根源となっている死の力に打ち勝たれたからです。イエスは復活されたことによって、御自身が今も私たちと共におられることを証ししておられます。それを知ろうとして聖書に記されたイエスのなさったこと、お語りになったことを聞く者に、神は必ず道、真理、命であるイエス・キリストを現してくださいます。イエスに求める者は、決して失望に終わらず、神に愛されて永遠の命に生きることができるのです。  

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