人に惑わされないように」2018.9.30
 マルコによる福音書 13章1~13節

主イエスは、律法学者たちの信仰の姿と、貧しいやもめの姿とを対照的に示されました。それぞれ信仰によって生きているのですが、しかし信仰によって生きているということは、この世で何を期待して生きているのか、ということと結びついています。今日は、主イエスが終末についてお語りになったお話の最初の部分から、私たちが今日どのような信仰の歩みをするのがふさわしいのか、ということを教えられています。特に今日は、人に惑わされないように、という主イエスの教えに聞きます。テレビのニュースを見ていますと、詐欺の被害に遭った実例をあげて、注意を促すということが毎朝なされているようです。惑わすどころか騙す。しかもあの手この手で考え、悪知恵を働かせて人の金を奪い取ろうとする。そんな時代に私たちは生きています。騙されないとはしても、私たちは常に人に惑わされる、ということはよくあるのではないでしょうか。惑わされる、という場合は、相手に悪意がない場合もあります。思い込んでいることを人にも信じさせようとする単純な場合もあります。そういう中にあって、私たちは、神の御言葉に聞くことによって、人に惑わされないで生きてゆく道へと招かれているのです。

1.神殿崩壊の予告
今日問題になっているのは、単にこの世の生活の中で惑わされないように、ということではなく、この世界全体に関わることについて惑わされないようにということです。それを踏まえつつ、御言葉に聞きましょう。
まず、主イエスが神殿から出て行かれる時の弟子とのやり取りが記されています。ここに出て来るエルサレム神殿は、ヘロデ大王が紀元前20年から19年に修築に着手し、完成したのは紀元62年から64年と言われています。エルサレムの神殿は、最初はダビデの子ソロモンの時代、紀元前10世紀に建造されました。しかし、バビロン帝国に侵略された紀元前587年頃に破壊されてしまい、その後紀元前515年に再建されました。それも再びローマ軍によって紀元前1世紀に荒らされて略奪され、その後にヘロデ大王が修復したのでした。
 このヘロデ大王によって修復された神殿は、非常に豪華なもので人に驚きをもたらすものでした。神殿の石材には立て4メートル、横12メートル、厚さ6メートルのものもあったそうです。先日金沢に行って来まして、金沢城を見たのですが、石垣の博物館とも呼ばれるほどで、いろいろな石の組み方をしており、大変面白いものでした。広大な敷地に石垣が巡らされており、一体どれだけの人力と、財力と、年月がかけられたのだろうかと思います。
 ヘロデの神殿もよほど見事なものだったようですが、いずれにしても人が築いたものは、やがて古びてゆき、いつかは朽ちてしまいます。文化財として永年保護されてゆくとしても、永久に留めておくことはできません。しかし、主イエスがここで「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われたのは、人の造った物はみな朽ちてゆくという一般的な事実を言ったわけではありません。どれほど立派な建物も、人の手によって壊されてしまうし、そうでなくとも、やがて一切が終わりになる時が来る。実はこのマルコによる福音書13章は、そのことについての一連の真理を主イエスが述べておられる所です。

2.人に惑わされないように
 弟子たちは、神殿の石が一つ残らずに崩されてしまう、という主イエスの話を聞いて、それはいつ起こるのか、どんな徴があるのか、と尋ねます。この徴とは前兆といったようなものです。すると主イエスはそれがいつ起こるのかという問いには答えずに、どんな徴があるのか、という問いに対する答えを語られます。イエスのお答えは、三つのことについてです。まず、イエスの名を名乗る者が大勢現れること。次に、戦争や国々の敵対、そして自然現象などこの世界に関わる人為的なものと自然なものの両方に大きな動きがあるということです。そして三番目に、主イエスの弟子たちが迫害され、捕われ、国家権力者の前に引き出され、そしてイエスについて証しすることになる、ということ。主イエスは、これらのことが起こっても、まだ世の終わりであるわけではないこと、しかしそれらは産みの苦しみの始まりであると言われました。そして、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない、とも言われました。私たちはこれらのことをよく覚えておきたいものです。
 それで、主イエスが言われた、人に惑わされないように、という点について学びましょう。最初にも言いましたが、今日、人をだます、ということがしばしば世の中では行われていて、それを商売にしている人もいます。しかしここでイエスが教えておられるのは、イエスの名を偽って語る者についてです。「わたしがそれだ」という言葉には、ある意味が込められています。イエスは世の終わりの時に再び現れる、という信仰がクリスチャンたちの中にあるからです。それについては、この13章でこれから語っていかれます。
 現代社会で人をだまして金を儲けようとする人は、あくまで自分の金儲けのためです。自分が誰か偉い人物と見なされるかどうかなど、どうでもいいことでしょう。目的はただ金儲けだからです。しかし、イエスの名を偽って語る、という場合、何の目的があるでしょうか。世の終わりに現れるイエスのことを「わたしがそれだ」と言って人を惑わしたとしても、何の得があるのでしょうか。そんなことをして儲かるのでしょうか。どうしてそういうことを言う者たちが現れるかというと、これはもう神に逆らう力がなお働いていて、世の終わりに当っては、その勢力が力を振るい始めてくるからです。今日朗読した箇所の後に出てきますが、偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業まで行うと言われています(22節)。6節の、イエスの名を騙る人たちは、しるしや不思議な業まではできない者たちなのかもしれません。だから、「人に」惑わされないように、と言われているのでしょう。しるしや不思議な業まで行うようなことができて、イエスの名を偽って語る。そこまでしている者は今の世の中にはいないと言えるかもしれません。使徒パウロは、サタンの働きによって不法を行う者が現れると書いています(Ⅱテサロニケ2章9節)。また、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊についてもパウロは言及しています(エフェソ6章12節)。背後でそれらが働いているということです。
イエスの名を騙る、という人はこれまでにも少々いました。しかししるしや不思議な業は行っていませんでした。ところがイエスの名を名乗る者が大勢現れる、というわけですし、そういう者が大勢現れたとしても、まだ世の終わりではないのです。私たちは、今、まだそういう世の中に生きているということです。ですから、まず、主イエスを神の御子、唯一の救い主と信じたならば、その信仰にしっかりと立たねばなりません。人はいろいろなことを言います。人は神に比べれば、賢くなく、あらゆる面で劣っています。神のことを知らないのに、神などいない、とうそぶきます。私たちはそういう声に惑わされないようにするべきです。

3.福音はあらゆる民に
 最後に今日のお話で主イエスが言われた言葉の重みについて改めて考えたいと思います。ここでイエスがお語りになった一連のことは、イエスご自身が地上におられた時からすれば、ずっと後のことになる話です。偽イエスの登場、戦争の騒ぎや、方々に起こる地震、そして飢饉。イエスが単に大変信仰深い人であるだけなら、このようなことはとても言えるわけがありません。神の御子だからこそ語れるのです。そして、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならないと言われました。福音とは、イエス・キリストによって私たちの罪の贖いが成し遂げられ、悔い改めて信じる者に罪の赦しと永遠の命が授けられる、そして栄光の神の国で新しい命に生きる者としていただけるという良き知らせです。イエスはご自分を通してそれらのことが実現することを予めご存じです。世界とそこに住む人間と、今後世の終わりに向かっていく世界の中で起こって来ることについて、予め告げられるお方なのです。
 私たちには、そのような方がそれこそ福音によって示されています。私たちがイエスを信じるのは、単にイエス・というお方が慈しみと憐れみに満ちていて、その素晴らしい人物に魅かれたというだけのものではないはずです。もちろん、主イエスの素晴しい人格に触れて、この方についてゆけば間違いない、という思いは私たちの中にあるでしょう。しかしそれだけではない。イエスは耳ざわりの良いことばかりを語る方ではありません。兄弟同士の殺し合い、親子の殺伐とした関係、イエスを信じる者がすべての人に憎まれること。こんなマイナスとしか思えないようなことを厳然と語られます。みんなが愛し合えば、平和な、争いのない、殺し合いなどない世の中が実現されます、などとは言わないのです。そんな耳ざわりの良い言葉で人を惹きつけたりはなさいません。それは人間の罪の実体と現実とを誰よりもよくご存じだからです。それでも、信じる者は起こされて、主イエスを信じます。私たちがその実例でもあります。そして主イエスは、御自身を信じる者に対しては聖霊を遣わしてくださって、私たちが窮地に追い込まれるようなことがあっても語るべき言葉を語らせてくださいます(11節)。だから私たちは自分のことに気をつけて、惑わされることなく揺るがされることなく信仰によって歩みなさいと言われているのです。人も、自然現象も、国々の争いも、飢饉も、何であっても私たちをキリストから引き離すことはできません。そのことを信じて、人の言葉に惑わされることなく、神の御言葉、主イエスの御言葉に信頼して歩み続けましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節