「慈しみ深き友なるイエス」 2018.11.18
ヨハネによる福音書 15章9~17節

 今日の説教は「慈しみ深き友なるイエス」という題をつけました。教会で長年讃美歌を歌ってこられた方は、すぐにあの讃美歌の出だしの部分だ、とお判りになると思います。今私たちの教会で用いている「讃美歌21」ではなくて古い方の版の312番の讃美歌です。今日この後に歌う讃美歌493番は、その同じ曲を「讃美歌21」に収録したものですが、歌詞が現代語になっています。「友なる」の所だけ、文語の雰囲気が残っています。あえて私は古い方の歌詞から取りました。長年歌って染みついてきたものはなかなか新しいものに置き換わらないということもあります。文語は古いと言われるかも知れませんが、格調の高さという点ではどうしても現代語の歌詞は引けを取ります。それはともかく、今日は、イエスの慈しみ深いこと、そしてそのイエスが私たちの友となってくださる、というこれは本当に素晴らしい恵みを、共に受け、その素晴らしさを悟りたいと願っています。

1.友となってくださったイエス
友と呼べる人がどれくらいいますか、という問いが与えられたとしたら、私たちはどこまでを友と考えるでしょうか。人によっていろいろでしょうが、たとえわずかであっても、友と呼べる人がいることは幸いなことではないでしょうか。ただ、自分は友のつもりでも、相手はもはやそうは思っていない、ということもあるかもしれません。私も、何人かの顔を思い浮かべることができますが、ほんの一握りです。幼稚園時代から振り返れば、その時代には友達だったけれども、今では会うこともない人、ある程度親しかったけれども、もうずっと疎遠になっているという人もいます。「友」とは、ある辞書によれば「勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人」とありました(岩波国語辞典)。確かに友人同士とは、上下関係を超えてのものであり、同等の相手とは言っても、年齢差がある場合もあり得ます。国語辞典の言う所では、同等の相手である、という点に着目しておきたいと思います。
先ほど読みましたヨハネによる福音書15章で、イエス・キリストは言っておられました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。友というのは血縁関係にありません。親兄弟という家族親族の間柄であれば、そのために何らかの犠牲を払う、ということはどこにでもあるでしょう。最も、昔も今も、場合によっては血縁関係にあってもいがみ合ったり、世話をしなかったりということがあり得ます。それでも通常は親兄弟のためには何らかの犠牲を払うものでしょう。それに対して友のために犠牲を払う、という場合、そこには本当に相手のためを思う気持ちがなければ人は動かないと言えます。そこで主イエスは言われます。友のために自分の命を捨てることは、最も大いなる愛であると。
イエスは、弟子たちのことを友と呼ぶ、と言われます。弟子たちから見れば、イエスは、偉大な先生であり、預言者であり、神の子です。弟子たちは、初めのうちはイエスがどなたであるかがよくわかりませんでした。自分たちとはかけ離れた存在であるということはいろいろな業を見ることで分かってはいましたが、一体この方はどなたなのだろう、と互いに話しておりました。そういう方が友となってくださるのです。

2.友のために命を捨てるイエス
 イエスは、友のために自分の命を捨てる、ということを実行された方です。イエスはこの後、ユダヤ人の指導者たちの妬みをかい、捉えられてローマ総督の下で裁判を受け、死刑判決を受けます。そして十字架での死を遂げることになります。このことは、キリスト教のことをよく知らない方々も、ある程度耳にしたことのある歴史上の出来事です。死刑判決を受けて殺されるのですから、この世の権力によって死に追いやられたわけで、一般的に考えれば自分の意志で十字架について死んだとはみなされません。他者によって殺された、と普通言われるのです。しかし、イエスご自身は、御自分が十字架で殺されることは、自分から命を捨てることだ、と他の所で言っておられます(ヨハネによる福音書10章18節)。そしてイエスがご自分の命を友のために捨てると言われる時、その友とは、この福音書の中で語っておられる時に目の前にいる弟子たちだけのことを言っているのではなくて、今こうして聖書を読み、イエスの言葉を聞いている、ここにいる私たちも含められているのです。たとえ時代ははるか後であっても、イエスを信じ、その御言葉を聞き、イエスの後に従って行こうとするものは誰でも、イエスが友となってくださっているのです。私たちは、このことを知る時、「慈しみ深き友なるイエス」という歌い出しで始まる讃美歌を、本当に自分の心からの言葉として歌うことができます。

3.今も友となってくださるイエス
 イエスは、友となってくださった私たちのために御自分の命を十字架で捨ててくださいました。それだけで大変なことであり、実に感謝すべきことです。しかしイエスのなさったことは、それだけではありません。父から聞いたことをすべて私たちに知らせてくださった、と言われています(15節)。父とは神のことです。イエスは神の子ですから、神であられます。しかしイエスは人間となってこの世に生まれて来た神の子です。そのイエスは、人として生まれる前から、父である神と共におられました。その時から父なる神の御心を聞いていたということです。イエスはこの世に生まれる前から、そのように存在しておられたことを自覚していました。これはイエスが神の子であるからこそできることです。
 そういう方が、弟子たちの友となってくださいました。そういう方だからこそ、今日の私たちに対しても、友となることができるのです。どんなに優れた人物でも、死んでこの世を去ってしまえば、まだこの世に生きている人に直接何かの影響を及ぼすことはできません。書物などを残したとしても、過去の人として何かを教えるに留まります。しかし、イエスは十字架で死んだ後、三日目に復活されました。今、目には見えませんが、確かに生きておられます。だからこそ、今ここにいる私たちに対しても、友となることができるのです。
 では、イエスが今日の私たちに対して友となってくださるのは、どんな風にでしょうか。イエスも過去の人の一人として、こうして聖書に書かれた言葉によって私たちを教えているに過ぎないのでは、という考え方が出てきそうです。確かに聖書は過去に書かれた書物であり、イエスが語った言葉も、約2,000年前に語られた言葉で、時間的には過去のものです。しかし、その過去に語られた言葉が、こうして教会の礼拝で朗読され、語られ、聞かれる所では、神の聖霊が働いておられて、その書かれた言葉が、今日なお生きておられる神の言葉、神の子イエスの言葉として私たちに迫ってくるのです。これは、聖書に近づき、親しみ、信仰に導かれて特に教会の礼拝を通して御言葉を聞く者に対してなされる神の大いなるお働きなのです。
 その御言葉をもって、そして教会の信者同士の交わりを通してイエスは慈しみを示してくださいます。今日も尚、神の御心を示し教えてくださっています。イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)。これは、忙しくしている現代人に休暇を与えるということではなく、魂の休み、平安、救いを与えるということです。
そして、イエスが友となってくださるのは、弟子たちに何か優れた面がある特別な存在だからではなく、ただイエスがお選びになった、ということだけがその根拠でした。そして、イエスに近づき、救っていただきたい、友となっていただきたい、と願う者をイエスは決して拒まれません。イエスを信じてその後について生きてゆこうとして歩み始める時、イエスは単なる歴史の中の人物ではなくなり、今、友となってくださる方であることを私たちのこの世での歩みの中で明らかにしてくださいます。教会の兄弟姉妹たちの中にいる時、その人の中に確かにイエス・キリストがおられることを私たちは見ることができます。しかし、目の前にいる兄弟姉妹も、そして自分も欠け多き、罪深き者です。イエスを信じて歩み始めると、そのこともまた、より深く実感するようになります。しかし、そのような罪深き者を、慈しみ深く愛してくださる方であることをますます知らせてくださるのです。そのような救い主イエス、慈しみ深き友であるイエスを信じて讃美を歌いましょう。

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