「大きな苦難を経て救いへ」2018.10.7
マルコによる福音書 13章14~27節

私たちが主イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとして生きてゆくということはどういうことでしょうか。わかりにくい問いかもしれませんが、イエスを救い主として信じている人は、この世のこと、この世界のことをどのように受け止めていくかということです。

1.読者は悟れ
 今日の題にもあるように、「苦難」という言葉などが出て来ると、初めて聖書のお話を聞く方等にとっては、あまり嬉しくないことではないでしょうか。誰でも苦難などは受けたくないに決まっています。しかし、その苦難の意味がよくわかって、その苦難を経て喜ばしいことが待っているということが確かであるなら、人はそれにも耐えることができるでしょう。私たちも、今日のこの箇所から、苦難、しかも大きな苦難の意味を知って、その先にある希望に目を留めたいと願います。皆さんも、誰かを教会に誘って聖書のお話を聞いてもらおうと思ったら、苦難の話で、この世に生きている限りは苦難があるということで終わってしまったら、残念、ということになってしまいます。聞いた人が希望を持てないようなことを教会が伝えているだけであったら、世の人は教会が宣教する内容、つまり福音を、良き知らせとして受け取ることができないからです。しかし、教会が古くから行ってきた宣教は、イエス・キリストによる救いの福音ですから、たとえ苦難がどれだけ大きかろうと神はキリストによって私たちに救いを与えてくださることを告げ知らせてきました。
 さて、今日のお話も、少し説明が必要です。14節以下、「憎むべき破壊者」、「読者は悟れ」といった言葉が出てきます。「憎むべき破壊者」は口語訳では「荒らす憎むべきもの」と訳されていました。これは、当時の、聖書を知っている人が聞けばわかるようなことです。旧約聖書ダニエル書には、「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す」という一節があります(9章27節)。これはイスラエルの民とその都エルサレムについての預言の中にあり、神の都エルサレムが荒らされる、ということが予告されているものです。そして紀元前167年に、当時ユダヤを支配していたシリアの王アンティオコス・エピファネスがユダヤ教を禁止し、エルサレム神殿に異教の祭壇を築き、ギリシャ神話のゼウスの像まで建てさせたということがありました。ダニエル書の預言は、この出来事を指しているとみなされています。
 また、「読者は悟れ」という言葉は言うまでもなく福音書を書いたマルコ自身の言葉です。マルコがこの福音書を書いたのは、諸説はあるものの、紀元60年代後半と言われています。主イエスが天に昇られてから30年以上が経過しています。その間に、ローマ皇帝カリグラが紀元40年前後に、エルサレム神殿に自分の像を建てさせようとしたことがありました。実現はしなかったけれども、マルコによる福音書の読者たちはそういう出来事を知っているわけです。こういった歴史の出来事を踏まえて、同様のことが起こるであろうから、警戒しなさい、ということが教えられているわけです。

2.大きな苦難の予告
実際、イスラエルの歴史の中では、紀元70年にローマ軍によってエルサレム神殿は滅亡してしまいました。その時には、人々が山へ逃げましたし、飢饉もひどく、非常に悲惨な状態に陥ったと言われています。本当に想像を絶するものだったのでした。
そういうことですから、ここから23節までは、おそらく、イスラエルの人々に対して歴史の中で近々起こるであろうことを予告しているのではないかと思われるのですが、しかし主イエスのお話の全 体をみてみますと、どうもそう簡単ではありません。24節以下では明らかに世の終わりのことについて語っておられることがわかります。天体まで揺り動かされるというわけですから。しかし、19節に言われていることも、一見すると単にこの世の権力者がイスラエルの人々を迫害し、エルサレム神殿に異教の祭壇を築くという程度のことではないようにも見えます。「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難」とまで言われるからです。とはいうものの、今後も決してないほどの苦難、というと、この世がなお続くことが前提されているようにも見えますので、そうするとこの世の終わりに至るまでの間の時代において、非常に大きな苦難が人々を襲うということになります。世の終わりが来る前に、これほど大きな苦難の時が来るというのです。20節で、「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」と言われますが、この救われない、という言葉も私たちが通常言っている意味での魂の救いのことではなくて、苦難から助け出される、ということになります。
このようにみてきますと、主イエスの言われた大きな苦難の予告と、いろいろと起こって来る出来事は、単純に紀元70年の大いなる苦難の事だけではなくて、最終的には24節以下のキリストが再び来られる時のことにつながっている予告、ということができます。

3.気をつけていなさい
 そういうわけで、ここで主イエスが言われた大きな苦難の予告は、これを語ることによって、終末に向かうこの世界の行程表を提供しようとしているのではなくて、「あなたがたは気をつけていなさい」(23節)という教えに重点があるということです。主イエスがお語りになった相手は、世界人類一般ではなくてまず弟子たちに対して語られたものです。そして主イエスを信じるクリスチャンたちにも言われています。イエスを信じている者たちに対して、「気をつけていなさい」と言われるのです。13章のここまでで5節、9節、23節と3回も「気をつけていなさい」と言われています。キリストの名を偽る者、偽預言者、偽キリストの登場、戦争、災害の頻発、飢饉、と言った者が次々に起こって来ても、慌てふためいて浮足立ってはならないのです。イエスが再び来られる時は、打での目にも明らかな仕方で、人には誰も真似のできない仕方で来られます。
 なぜ人はこのような苦難を受けねばならないのでしょうか。それは、神の前に人が罪を犯してしまったからですし、罪を犯しているからです。しかしこの世に起こることを見ていると、実に大変な苦難を受けていると思える人と、それほどでもないと思える人がいます。様々な時代や国や境遇によって、人の人生は千差万別です。しかし、神に対して罪を犯している、という一点だけは共通です。神は公平なお方です。人を分け隔てなさいません(ローマ2章11節)。その神の前で私たちは自分のことを申し述べねばなりません(ヘブライ4章13節)。
 そして神は、罪を正しく裁かれる方です。この世に様々な苦難があり、特に世の終わりに向かって大きな苦難が襲ってくるというのも、一つには神の怒りの表現ということが出来ますが、同時に神は私たち罪ある人間に、罪を悔い改める機会を与えておられるとも言えます。しかし、苦難をあまりにも大きくしてしまって誰一人救われないようになさるのではなくて、憐れみをもって、救いに入る者が入れるように、御自分のものとしてお選びになった者たちのために悔い改めの機会を与えてくださいました。そういう方が私たちの救い主としていてくださいます。たとえどんなに大きな苦難がこの世と自分に降りかかってきたとしても、それは神の御手の中にあることで、私たちを神に対する背きの罪から救うためであることをよくよく覚えるべきであります。  

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節