「目を覚ましていなさい」2018.10.21
 マルコによる福音書 13章28~37節

主イエスは、御自身が再び世に来られる時、つまり世の終わりのことを予告されました。この世界は永久にこのまま続くのではない、ということを聖書ははっきりと教えております。今日はまたそのことをよく覚えつつ、主イエス・キリストが、「目を覚ましていなさい」と言われた御言葉の意味をよく聞き取りたい、そして私たちも言われた通りに目を覚ましている者とならせていただきたいと思います。

1.いちじくの木のたとえ
 今日の朗読箇所で主イエスはいちじくの木のたとえを話されました。枝が柔らかくなり、葉が伸びると夏が近づいたことが分かる。現代の私たちは、自然に触れることが少なくなっているとは言えるかもしれませんが、季節の移り変わりによる植物の変化を感じて楽しむようなところがあります。植物に限らず、気候の変化によって、もう秋だとか、冬が近い、と感じるものです。それで主イエスは、「これらのことが起こるのを見たら」と言われます。「これらのこと」とは、この13章に記されている全体のことなのか、それとも直前の24~27節のことでしょうか。ここで主が13章でずっと語って来られたことは、一体どれだけの期間に起こるのか、それは誰にもわかりません。ですから、戦争の騒ぎや地震や飢饉や、偽預言者、偽キリストの登場と言った出来事が次々起こったとしてもまだそれで終わりではないのですから、やはり24節から27節に言われているような、天体が揺り動かされ、人の子、つまりイエス・キリストが天から雲に乗って来られるのを人々が見ることが出来るようになる、その時のことを言っておられるのだと思われます。
 旧約聖書には、天の星も月も太陽も光を放たなくなるという状況を叙述している個所があります(イザヤ書13章10節)。バビロンに対する審判を述べる中で、世界に対する神の怒りによる裁きを語っている所です。神の怒りが悪を罰する時のことを、主の日が来る、と言って予告しているのです。エドムに対する審判を語る所でも、「天の全軍は衰え 天は巻物のように巻き上げられる」(同34章4節)という叙述がされています。歴史の中でそのような神の怒りによる審判がなされたとしても、それは一時的なものではあります。しかし、ここで主イエスが語っておられるのは、歴史の中での一時的な裁きのことではなく、もはやこの世が立ちゆかなくなる最後の時を表しているものです。同様の預言は、エゼキエル、ヨエル、ゼファニヤと言った預言者たちも語っておりました。
そしてそのことの次に、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」と主イエスは言われました。これはダニエル書の預言に基づいています。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた」(7章13節)。主イエスは、ダニエル書で言われているこの預言にある「人の子」をご自分のことであると言われたのです。

2.イエスの言葉は滅びない
それが、「これらのこと」と言われる出来事です。29節に「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とありますが、「人の子が」というのは原文にはありません。単に、「戸口に近づいていると悟りなさい」と言われているのです。ですから、これらのことが起こったならば、もはやこの天地はこれまでのような秩序の下には存在し続けることはできなくなる、ということです。それを、この時代が滅びる、という表現で言っておられます。そしてこれらのことが起こるまでは、この時代、この世界はたとえどんな天変地異が起ころうとも、災害が頻発し、飢饉が起こり、あちらこちらで戦争が起こっても、滅びないのです。
さてしかし、ダニエル書が預言していたことが、自分のことである、とイエスが言われたとしてもそれはまだこの世では起こっていません。イエスを信じない人々の間では、本当にそうなのかどうかは、まだわからないと言うかもしれません。そもそもダニエル書に書かれているようなことや、先ほども見た聖書にある様々な叙述がこの世の終わりに起こるかどうかも分からない、という人もいることでしょう。しかし私たちは、ここで語っておられるイエスの御言葉を信じます。イエスの御言葉はこれまでも世界の中で語られ、信じられ、記され、読まれ、告げ知らされ続けてきました。イエスの御言葉の内には、私たちを納得させるものがあるからです。それは何でしょうか。やはり御言葉そのものの中にある権威と力によるものだと言えます。人は口先では何とでも言えます。同じ言葉でも、どの人が言うかでずいぶんと違ってきます。イエスの御言葉は、それを直接聞いた多くの人々を動かし、悔い改めに導き、励まし、慰め、希望を与え、世界宣教へと送り出してきました。イエスご自身は、御自分の言葉が滅びないことを知っておられました。ところでここで滅びない、と言われているのは「過ぎ去らない」という意味の言葉です。今はどんなに立派でこの世に君臨していたり、幅を利かせていたりしても、やがては廃れていくものがこの世には溢れています。特に人の名誉、言葉、業績などは、年月の経過に勝つことはできません。時間と共に過ぎ去ってしまうのです。そして過去のものとなってゆく。しかしイエスの御言葉は決して過ぎ去らず、滅びない。語った事は必ず実現に至ります。これは天地の主である神のみがなし得ることです(イザヤ書55章11節)。

3.目を覚ましていなさい
 主イエスは、今目の前にいる弟子たちに対して、家を出て旅に出る人と、その家の門番とのたとえによって、お語りになりました。ご自身を家の主人にたとえ、弟子たちを僕たちと門番とにたとえています。ここで、僕たちと門番とを厳密に区別する必要はないと思われます。主人である主イエスが、十字架の死の後に復活され、昇天され、やがて弟子たちの肉眼には見えなくなる時がきます。この世から上げられて天の父なる神のもとに行かれますが、再びこの世に帰ってくると約束されたわけで、それが先ほど見た26節にある大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってやってくる人の子、つまりイエス・キリストであります。  主イエスは、ご自身の言葉は決して滅びない、つまり過ぎ去らない、と言われました。必ずこの世の終わりの時まで存続し、人々に聞かれ、語られ、信じられ、主イエスの約束を待ち望む人々が必ずいる、ということです。そういうイエスなのですが、その日、その時は知らないと言われます。天使も子も知らない、という時の「子」は神の御子であるイエスご自身のことです。イエスがその時を知らない、というのは、御自分には弟子たちにそれを明らかにすることがゆだねられていない、という意味です。イエスはそれを弟子たちにも、今日の私たちにも知らせてはくれません。なぜなら、いつの時代であっても、私たち信じる者が終わりの時を何年何月と特定することなく、いつだかわからないけれども、目を覚まして信仰によって日々を歩み、割り当てられた仕事を、責任を持ってなし続けてゆくためです。私たち人間は、何か重大な事や、大事な人を待つとき、その到来の時刻が分かっている場合は、生活をそれに合わせて整えてゆきます。ましてや世の終わりに、救い主イエス・キリストが再びこの世に現れる日時が分かっているとしたら、全てそれに照準を合わせていくことでしょう。その終わりの時から先は、もうこの世での仕事はしなくてもよくなりますから、責任を与えられた仕事を放り出してしまうかもしれません。
 主イエスは、私たちがそうなることを望んではおられず、常に目を覚まして備えていることを望んでおられるのです。だから私たちは主から責任を与えられた仕事、割り当てられた仕事を続けます。その仕事は、この世がもう終わるからといって決して無駄にはなりません。確かにこの世で悩み苦慮しながら労苦して働き、やっと報酬をいただくというような、今のこの世の秩序は終わって全く新しいものとなるでしょう。しかし主の下では、すべてが覚えられています。
 そして、主イエスが再び来られる時には、私たちが何に望みを置いて生きて来たかが明らかになります。この地上に宝を蓄えて、この世の名声や名誉を追い求めて、この世限りのものに執着して生きているなら、却って来られた主人であるイエス・キリストから、眠っていた僕と見なされてしまいます。しかし、本当に主イエスを信じてその救いの恵みを信じ、期待して待つ人は、どんなに小さな働き人であれ、どんなに弱い僕であれ、その割り当てられた仕事をなしてゆく力をも必ず主からいただけます。その憐れみ深い主を、目を覚まして待ち望みましょう。
目を覚ましているというのは、一日、一日、主が確かに生きておられて私の主であられることを信じてゆだねつつ歩むことです。主が生かしてくださるのであれば、今日もまたあのことこのことをし、主がもうこの世での仕事を終わりにせよと言われるならそれを受け入れ、その帰りを待つということです。自分のこの地上での生涯の終わりが主イエスの再臨によるか、それとも、個人の死としてこの世を去ることになるか、それは私たちにはわかりません。どちらだとしても、そのどちらがいつ来てもよいように心備えをして割り当てられた仕事をし、日々を歩むのです。この場合の仕事とはあくまでたとえ話の上ですから、主を待ち望む一人一人の一日一日の業のことです。それは奉仕であり、働きであり、祈りであり、伝道であり、礼拝そのものです。主イエスは弟子たちにこのことを語られ、そしてそれを今日生きている私たちにも同じように語っておられます。この世で生きる私たちにこのような御言葉と約束を力強く語ってくださる方が私たちの主であること、これ以上の幸いはありません。この主を共に待ち望みましょう。眠っているように見えるものがいるなら起こしてあげて共に目を覚ましていられるように、祈りましょう。

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