「人の企てを超える神の計画」2018.10.14
 エステル記 6章1~14節

 今日は、旧約聖書エステル記から学びます。旧約聖書の中には本当にいろいろな種類の書物が含まれていまして、文学的な興味や観点から見ても大変面白いものですが、やはり私たちはこの書物を神の御言葉として聞き、受け取り、読み、学びます。そして、このエステル記から、今日の題に掲げましたように、私たちは神のお考えと御計画が人の思いとか考え、知識とか知恵を超えているということを教えられるのです。

1.エステル記という書物
 先ほど、私たちは神の御言葉としてのエステル記から聞くのだということをお話しましたが、それでも、やはりまず書物としてのエステル記について少しお話をしておきます。それを知ることによって、神の御言葉が今日私たちにまで書物として伝えられていることの意味を知ることができます。
 旧約聖書はもともとヘブライ語という言語で書かれましたが、後にギリシア語に訳されていきました。いろいろな訳がありますが、普通70人訳ギリシア語聖書というのが有名なものでしかも重要なものでもあります。紀元前2世紀の終わり頃のものと思われます。ところがこのギリシア語の聖書は、ヘブライ語の聖書と、内容が全く同じというわけではありません。普通外典と呼ばれるもの、新共同訳聖書では続編と呼ばれるものがついています。これらは、私たちプロテスタント教会では、神の権威ある御言葉ではないとしています。つまり信仰と生活の規準とはしていないのです。私たちにとって信仰と生活の規準となる神の御言葉は、旧約聖書については、創世記からマラキ書までの39巻の書物だけです。私たちプロテスタント教会では、ユダヤ教と同じように、ヘブライ語で書かれたものだけを正典=神の権威ある御言葉として受け入れています。ギリシア語で書かれたものは、更に後の時代に書かれたもので、区別しています。その中でも、このエステル記は少々独特です。正典エステル記に対して、ギリシア語エステル記は、私たちの持っているエステル記に書き加えられた部分があります。新共同訳聖書では、その部分をA~Fまでのアルファベットで示しております。そこには、正典には書かれていないいろいろな出来事があります。モルデカイという人が見た夢だとか、祈り、その他王の勅書などです。
しかし違うのはそれだけではなく、ヘブライ語エステル記と同じ内容を記している所にも少々違いがあります。実はヘブライ語で書かれているエステル記には、「神」とか「主」という言葉が出てきません。聖書なのに、神という言葉が出てこないのです。ところが、ギリシア語で書かれた部分には、わざわざ主とか神とかいう言葉が入れてあります。例えば今日の朗読箇所の6章1節は「その夜、王は眠れないので、宮廷日誌を持ってこさせ」となっていますが、ギリシア語では、「その夜、主が王から眠りを奪われたので、~」となっています。13節も「~あなたはその前でただ落ちぶれるだけです」とありますが、ギリシア語ではその後に「生ける神が彼と共におられるからです」と付け加えています。ギリシア語の方は神のなさったことや神のことが良く分かるように書かれているわけです。

2.隠れた所で働く神の摂理
元々のヘブライ語の方では神という言葉が出てこない。しかし旧約時代の人々にとっては、そこに書かれている内容は神の摂理による物語であり、たとえ神という言葉が出て来なくとも、そこには神の見えない御手の御業と導きがあって信仰者たち、神の民を守り導いて来られたのだ、と言えるのです。ですから、神という言葉が出てこないからと言って聖書としてふさわしくない、とは旧約時代の民は思わなかったのです。むしろ後から作られたものは神とか主という言葉をあえて入れ、そして神がなさったことだということをあえて注釈的に入れて人々にわかりやすくしようとしたのでしょう。
 ですから、私たちはこのヘブライ語で書かれた正典エステル記の内容から、神の御手の業を見逃がさないように読む必要があります。エステル記はペルシャ王の妃となったエステルというユダヤ人女性が、ハマンという、ペルシャ王の家臣の企みによってユダヤ人が絶滅されようとしていた時に、王妃の立場を用いて王に進言し、ハマンの企みを妨げるというお話です。エステル記をはじめから読むとわかりますが、宮廷日誌のことが2章の終わりに出てきます。エステルのいとこにあたり、エステルを自分の娘として引き取って育てていたモルデカイは、ある時王の私室の宦官である二人の者が王を倒そうと諮っていたのを知ってエステルにそれを告げ、エステルはモルデカイの名でこれを王に告げました。そしてその二人は捜査の結果処刑されました。このことが宮廷日誌に記入されたのです。
 2章21節は「さてそのころ」という書き出しでこの出来事を記していますが、著者はこの出来事の背後にあることを意識しています。そして、後の6章で王が眠れない夜を過ごしている時、宮廷日誌を読み上げさせると、かつてのモルデカイの手柄が記された記録を聞き、その報いを受けたかどうかを質したのです。

3.人の企てを超える神の御計画
 このモルデカイのことを、王の高官であるハマンは嫌っておりました。ハマンが王宮に来ると役人たちは、王の命令に従ってみなハマンの前にひざまずいて敬礼をするのですが、モルデカイだけはそうしませんでした。彼はユダヤ人として、神のみを崇めていましたので、ハマンに対してひれ伏して敬礼することは、たとえ王の命令でも従わなかったということです。実はこのことも、ギリシア語のエステル記にはその理由が書かれています。神の栄光の上に人の栄光を置かないためでした(C7節)。ユダヤ人ならすぐにわかることを、他の国々の人にもわかるようにしていると言えましょう。
それでハマンは、モルデカイがユダヤ人であるので、ユダヤ人を皆殺しにしてしまおうという恐ろしい企てを王に進言し、王もそれを許可していたのでした(3章6~11節)。この時、王はモルデカイ個人の名を知らされておりませんでした。  こうしてモルデカイは、王の命令に背いたとしても、神よりも人を崇めることをしなかったのです。それゆえハマンがユダヤ人撲滅計画を企てましたが、宮廷日誌によって王がモルデカイの手柄を知ります。そしてハマンの意に反して、モルデカイのことを、王が栄誉を与える人として人々に示す役目をハマンは果たすことになったのでした。ハマンは悲しみ嘆いて家に帰りましたが、妻のゼレシュが「ユダヤ人の前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです」と告げます(13節)。これも、ユダヤ人の読者には、意味がすぐにわかります。しかしギリシア語訳では、先ほど言いましたように、「生ける神が彼と共におられるからです」という言葉を付け加えています。より広い国の人々に理解しやすくするためでしょう。そして実際、ハマンはこの後失脚して、処刑されてしまいます。
 どちらにしても、モルデカイが耳にした王への反逆事件を王に知らせたこと、それが宮廷日誌に記されたこと、後に王が眠れない夜を過ごし、その時に宮廷日誌を読ませたこと、また、モルデカイがユダヤ人であり、その信仰のゆえにハマンにひれ伏さなかったこと、ハマンはモルデカイの名を上げずに王にユダヤ人撲滅計画を進言したこと、そしてエステルが王妃になっていたこと。これらの出来事が皆つながっていました。ハマンは、自分こそ王の第一の家臣であることを自負し、おごり高ぶり、自分の思うとおりに王を動かして、気に入らない者を抹殺しようとしました。どれだけ世の権力があっても、あらゆることをすべて見通せるわけもありません。ハマンは宮廷日誌のことなど知る由もなかったのです。そして、エステルが王妃に選ばれたことが非常に大きなことでした。これもまた神の御計らいであったわけです。
 私たちは、これは聖書のお話だから、出来すぎていると思うほどにすべてのことがつながっていると思うでしょうか。確かに、聖書に記されるほどの出来事は、そのような神の摂理の御業とご計画と導きの典型的な面を示しているということはあります。しかし、私たちは、この同じ主なる神が今日もおられて、すべてのことを見ておられ、人間の企てや計画を超えた所で一切を支配し、あらゆることのつながりを見ておられ、用いられることを忘れてはなりません。
私たちは、歴史の中に特別に記録されて後世の人にも読まれるような出来事を経験するとは限らず、むしろそのような人は少数だと言えるでしょう。けれども、私たちはこのエステル記に記されているような、神の摂理を信じるものです。それは私たちの願望ではなく、神の御心が実現してゆく過程の中で働きます。しかし同時に神の民のために働くものでもあります。当座は、喜ばしいこととは思えないこともあるでしょう。例えばエステルはペルシャの王の妃に選ばれましたが、人間的に考えれば、好きでもない王様と無理に結婚させられた、という感情を持ったかも知れません。しかしそのような中でも、神を信じて生き、日々を過ごしていたはずです。エルサレムから異国の地へ連れて来られ、両親も亡くなっており、孤独な中でモルデカイに引き取られ、自分の人生は何であろうかと嘆いたかもしれません。しかし、それでも神への信仰によって生きていたのです。
 今日、私たちが神を信じ、イエス・キリストを救い主、主と仰いで生きていることは、その中に神の摂理の御業とご計画が詰め込まれている、と言えるのです。どこで生まれてどこに住んで、どこに移り住んで、誰と生活を共にして、いつどこで主イエスに出会い、教会に導かれたか。全ては神の御手にあります。そのことを改めて覚えて主の恵みとご計画を顧み、感謝と讃美をささげ、信仰の道における主への信頼と服従の思いを新たにしましょう。

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