「狭い門から入りなさい」 2018.5.6
マタイによる福音書 7章7~14節

 尾張旭教会だより第3号を発行しました。今月お話しする題を4回分書きました。今日は第1回目として、「狭い門から入りなさい」というお話です。これは、イエス・キリストがされた「山上の説教」と言われる一連のお話の中にあるものです。アンドレ・ジイドの「狭き門」という小説がありますので、聖書になじみのない方でも、耳にしたことのある言葉だと思います。私はもう30年以上も前に読んだのですが、内容はもう残念ながら忘却の彼方へ行ってしまいました。パラパラと頁をひっくり返してみましたが、もう一度読む余裕もないのが事実です。カバーの粗筋紹介の一文には、主人公の女性が、ある男性を慕いつつも、「地上的な愛を拒み人知れず死んでゆく。残された日記には、彼を思う気持ちと『狭き門』を通って神へ進む戦いとの苦悩が記されていた・・・・。」とありました。私は小説そのものを論ずる力はありませんが、少なくともこの紹介文によれば狭い門を通って神へと進もうとするのは、苦悩が伴う、ということになりそうです。今日は、この「狭い門」と言われるものがどんなものなのか、イエスが言われたのはどういうことなのかを、聞き取りたいと思っています。そして、特に今日、ここに集われた方々が、イエスの言われた「狭い門から入りなさい」という言葉の意味を知ったうえで、ご自分に語られた言葉として受け取っていただきたいと願っています。

1.狭い門と広い門
 さて、狭い門、あるいは狭き門というと、まず連想するのは、入学試験あるいは就職試験ではないでしょうか。少し前に、宝塚歌劇団に合格した人のドキュメントのようなものをテレビでやっていましたが、宝塚歌劇団に入るにはまさに「狭き門」をくぐらなければならない、と言えます。入りたくても入れてもらえない人が大多数です。つまり誰かをそこに入れる権限を持つ人(団体)の設けた基準に合わないと入れてもらえないのです。試験に合格しないと入れないわけです。  では、イエスがここで言われる狭い門はどうでしょうか。イエスは、試験に合格した人しか入れないとは言っておられません。ただ単純に狭い門から入りなさいと言われるだけです。そして、私たちが今用いているこの新共同訳聖書では、訳し出されていませんが、この文章は、「狭い門から入りなさい。なぜなら、滅びに通じる門は広く、その道も広々としているからだ」という文で、「なぜなら」という言葉が入っています。広い門から入って広い道を歩く人は多いけれども、その道は滅びに通じるからだ。だから、狭い門から入りなさい。なぜなら狭い門から入って細い道を歩いていけば、命に通じるからだ、というのです。  狭い門を通るには難しい試験があるとか、そのために勉強しなければならない、というような、狭い門を通るための条件は何も言われていません。イエスは一体何を教えておられるのでしょうか。 2.滅びか、命か  このことを知るためには、滅びとか命、というものについてイエスが何を教えておられるかを知る必要があります。そもそも、イエスは救い主と言われます。世の人々を救う救い主です。しかも神からこの世に送られた救い主です。ですから、神はこの世に生きる人間が救われる必要がある、救われねばならない、とお考えになっているわけです。この「狭い門から入りなさい」という教えも、救われなければ滅びである、ということがわかります。そのどちらかです。私たちは、この世に生まれてきましたが、実は生まれながらに危機的な状況に置かれている、ということです。これは考えてみれば大変なことではないでしょうか。キリスト教の宣教というのは、実は人間についてのそのような危機的状況について私たちに知らせ、そこからの救いの道がイエス・キリストにある、ということを告げ知らせているものなのです。とにかく、人は救われなければならない状況にある。だから、狭い門から入りなさい、と命じるのです。
 では、狭い門から入るとは、どうすることなのでしょうか。狭い門から入って、狭く細い道を歩いてゆくことは、イエス・キリストの言葉を信じることから始まります。まずその言葉に耳を傾けることです。イエス・キリストは、2,000年ほど前に、ユダヤに生まれた方です。その誕生は、何百年も前から予告されていました。そしてイエスは年およそ30歳の頃から人々の前で、公に活動するようになり、神の言葉を語り、多くの奇跡を行ない、病気の人々を癒しました。イエスは神のもとから来られた神の御子、神がこの世に遣わされた救い主です。ですから、イエスは単にだれよりも信心深い人だったという程度の方ではなく、私たち人間が救われなければならないことをよくご存じで、そのために必要なことをするためにお生まれになったのです。だから、命に至る道は狭く細い、と言われていますけれども、もし私たちがその道を歩いたとしても、イエスの後についてゆけば、確実に命へと導いていってくださるのです。
 しかし、イエスが言われたように、私たちは皆、生まれながらには自分たちの危機的な状況については知りません。それが広い門から入って、広々とした道を歩いている、ということです。しかもそこから入る者が多い。入る前と後があるように見えますが、誰でも初めは広い門から入って広々とした道を歩いていると言ってもよいのです。そのような中で狭い門を見出し、狭く細い道を歩きなさい、とイエスは言われます。
 最初に言いましたように、この狭い門を入るには、別に入学試験があるわけではありません。イエスの言葉を信じて、その後についてゆくことを始めればよいのです。それはイエスの言葉を聞くことから始まります。そして聖書の教えに聞くということです。私自身、信仰の道を歩み始めた時、このイエス・キリストというお方についてゆけば間違いはない、と信じました。イエスは、地上生涯の最後には十字架につけられて殺されましたが、三日目に復活されました。死に打ち勝って、命を獲得されたのです。もはやイエスの前では死の力は失われました。だから、イエスに委ねてゆけば、私たちも死に打ち勝ち、永遠の命をいただくことができます。
 私たちは、大勢の人が一緒だと安心します。よくわからないけれどついてゆけば良いと思ってしまいます。しかし、その大勢の人たちが、行先について誰も良く知らなかったらどうでしょうか。行先がよくわからないけれども、みんなで歩いているから大丈夫かな、くらいで進んでいって、最後にとんでもない所にたどり着いたら、後の祭りです。そうならない前に、狭い門から入って、イエスの後についてゆきなさい、と私たちは命じられているのです。

3.誰でも入れる狭い門
最後に、この狭い門からは本当に誰でも入れるのでしょうか。入れます。今日朗読した箇所の前半部分にそれは明らかです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(7、8節)。
この狭い門から入る歩みは、狭く細い道を歩きますから、楽ではなさそうです。多くの人が歩く広い道と違って狭く、細いのです。先ほどの小説の主人公の女性は苦悩しましたが、イエスに従って狭い門から入るのは、苦悩の生涯をもたらすのでしょうか。そんなことはありません。確かに世の多くの人とは違う道を歩むということは言えます。唯一人の神を拝み、聖書の言葉に従おうとして生きるのですから、広い道を歩いている人々と相いれないことは出てきます。しかしそこには喜びもあります。救い主イエスと共に進むことは、苦難の連続をもたらすものではありません。しかしたとえ苦難がもたらされたとしても、それはこの世での限られたものです。イエスはこの世での苦しみとは比べものにならないほどの永遠の重い栄光を私たちにもたらす、と聖書に約束されています。
狭い門から入る道は命へと、しかも永遠の命へと私たちを確実に連れて行くことのできるイエス・キリストが先立って導いてくださる道です。イエスはご自身のことを門であるとも言われました(ヨハネによる福音書10章9節)。そしてイエスを通って入る者は救われると。私たちが聖書を通してこのイエスの呼びかけを聞く機会が与えられているということは、またとないほどの神の恵みです。イエスという門から入って永遠の命へと進みましょう。私たちが入りたい、だから入ろう、とするなら入れます。そこに救い主イエスが待っておられるのです。

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