「信仰があなたを救う」2018.4.8
 マルコによる福音書 10章46~52節

 イエス・キリストの復活を記念し祝うイースター礼拝を先週私たちは献げました。復活された救い主イエスの姿を私たちは肉眼で見ることはできませんが、信仰の目によって見ることができる。そして復活された主イエスを信じる道へと導かれた者は、新しい命の道へと歩み出しているのであります。その道は、主イエスが先立って歩まれた道であり、非常に多くの主イエスに従う者たちがその後を歩んでいった道です。今日はその中の一人の人についてのお話しです。

1.エリコの町の盲人バルティマイ
 主イエスの一行はエリコに来ました。エリコは、死海の北方10キロ程の所にあり、エルサレムの東方、直線で24キロ程の距離にあります。そこにバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っておりました。彼は目が見えませんでしたが、人々がイエスの噂話をするのを聞いていたので、イエスが来られたと聞くと叫び始めて、「私を憐れんでください」と呼びかけます。彼は「ダビデの子よ」と呼んでいます。イスラエルの王となったダビデは、罪を犯しましたが、悔い改め、信仰によって歩んだ人でした。やがてイスラエルを永遠に治める王がその子孫から生まれる、と約束されていましたので、「ダビデの子」といえばイスラエルを治めるとこしえの王を表す称号としての意味があったのです。「ダビデの子」というだけではイエスというお方の全体像を十分に表しているとは言えない面があります(マタイ22章41~46節)。しかし主イエスはここではそのようなことには特に触れることなく、この盲人を呼んでくださいました。
 しかし、バルティマイがイエスに叫び続ける中で人々は彼を黙らせようとします。おそらく人々は、彼の叫び声によって、イエスが道々話しておられることが良く聞き取れないから静かにさせようとしたのでしょう。しかし彼はひたすら叫びます。目の見えない彼はイエスに視線を向けることができません。だから一層声を張り上げてイエスに聞き届けてほしい、と願って引き下がりませんでした。彼はただ、憐れんでくださいと願います。この時代の盲人たちは、このように道端に座って物乞いをするしかなかったでしょう。今日であれば、盲人の方のために訓練センターのようなものがあって、行政の支援を受けたり人々の助けを得たりしながら職業訓練などもすることができましょう。もちろん目が見えない、というハンデと、見える人にはわからないつらさや苦労があることはいつの時代も同じですが、それでもやはりこの時代の盲人は、生きてゆくために自分が積極的に何をするでもなく、こうして日を過ごすしかなかったことでしょう。だから彼は、こんな自分の状態をイエスに認めてほしい。そして憐れみをかけてほしいと願ったのでした。

2. バルティマイの信仰
 主イエスはこのように叫び続けるバルティマイを呼んでくるようにと言われました。イエスは「何をしてほしいのか」と尋ねられます。さて、この御言葉は、36節でもヤコブとヨハネに対して言われたことでした。原文では少しだけ言い回しが違っていますが、ほぼ同じ意味のことを言われたのです。弟子であるヤコブとヨハネは、主イエスが栄光をお受けになる時に、一人はイエスの右に、一人は左に座らせてほしいと願いました。それに対してこの盲人のバルティマイは、主イエスの憐れみをひたすら求めました。主イエスはヤコブとヨハネに対しては、「あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない」と言われました。それに対してバルティマイには何も言われず、直ちに癒やしてくださいました。バルティマイは自分が何を願っているかわかっていました。唯ひたすら、自分にないもの、通常ならば誰でもできること、「目が見える」ということを求めます。ここで彼は目が見えるようになりたいのです、と訳されていますが、ここで使われている言葉は、再び見えるようになる、という意味ですので、彼は、以前は見えていたけれども何かの事情で視力を失ってしまったということのようです。いずれにしても、ヤコブとヨハネの二人の弟子たちと、バルティマイとは実に対照的です。片や自分たちの身分の保証を求め、しかも高い位を要求する。他方、唯イエスの憐れみだけを求め、本来ならば皆が持っている、見る、という能力の回復を求める。彼は、人に与えられている「見る」という能力の大きさを思い知っていたことでしょう。人にそのような能力を与えられたのは神です。つまり人を創造なさった方です。そういう方にしかできないことを彼はイエスに求めました。彼がイエスのことをどのような方であるかと理解していたのかはここからだけではわかりませんが、少なくとも神から来られた特別な方であると信じていて、この方ならきっと自分の失われた視力を元通りにすることが出来ると信じたのです。
 イエスに何をしてほしいのか。さて私たちはどのように主イエスに願うでしょうか。ヤコブとヨハネに対しては、主イエスは彼らの望むものを与えるとは言われませんでした。そしてむしろ、弟子たち皆に、ご自身が仕えるため、つまり多くの人の贖いとしてご自分の命を献げるために来られたことを話されました。ヤコブとヨハネは、自分たちが出過ぎた願いを申し出たことを知ったことでしょう。しかしイエスはそういう弟子たちをもなお、弟子たちの内に留めておられます。そして弟子たることの意味をこのバルティマイの出来事でも更に教えておられるかのようです。
 さらに、バルティマイは、弟子たちの一人ではなかったことにも注目しましょう。いわば外部のものですが、イエスの噂を聞いて、そのなさっていることの素晴らしさを知り、自分もその憐れみを受けたいと願っていました。周りにいた人たちは彼を黙らせようとしますが、彼はしきりに願い、イエスも彼を招かれます。ちょうどイエスのもとに連れて来られた子供たちが弟子たちによって妨げられそうになりましたが、イエスご自身が子供たちを身許に来させたのとよく似ています。バルティマイは、イエスの弟子の中で高い位に就きたいなどと少しも思っていなかったでしょう。ただ自分の目を再び見えるようにしてほしいという素朴な願いをイエスに聞いていただきたかっただけでした。
さて、先ほどは弟子たちとバルティマイとを比較はしましたが、弟子たちはそれでもイエスのもとに常に置かれており、誰が一番偉いかと議論していた時も(9章35節)、イエスの受難の予告に驚き恐れるばかりだった時も(10章32節)、弟子たちが身の程知らずのことを願っても(10章42節)、主のみもとに呼び寄せていただいて懇切に教え諭していただいていたこともまた忘れてはなりません。常に近くにいた弟子たちは、いろいろと欠点をさらけ出します。しかしそのような弟子たちのことを主イエスは承知の上で彼らを教え諭し、訓練しておられると言えます。

三.あなたの信仰があなたを救った
最後に、バルティマイに対して主イエスが言われた御言葉を聞きましょう。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」(52節)。バルティマイは、行きなさいと言われたけれども、どこかへ出かけて行くのではなく、主イエスに従いました。それが彼の行くべき道でした。そしてイエスはバルティマイに、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。信仰は、それ自体が私たちを救うというよりも、救いを受ける手段です。私たちを救ってくださるのは主イエスですが、信仰によって初めてそれを受け取ることになるからです。
また、イエスはここで「あなたを救った」と言われましたが、彼が救われたというのはどういう意味でしょうか。目が見えなくなって、不自由になり、人の施しを受けなくては生きてゆけない状態から解放されたことでしょうか。もし彼がこの救いをそのようにだけ受け取っていたのなら、イエスの後になどついて行かないで、早速自分の生活のために何か商売を始める算段でも始めたかもしれません。しかし彼はそうしませんでした。
彼は視力が回復される前から実はイエスを見ることができていたと言えます。目が見えていて、イエスのなさることを見ていたとしても、それを素直に神の御力として受け入れることが出来ずに、イエスを悪霊のかしら呼ばわりしたり、イエスを殺そうとしたりしたのは、目の見えている人たちでした。そのような人たちは、視力はあっても、神の御子を見ることができませんでした。バルティマイは、目が見えないからこそ目を見えるようにしてほしい、という実に単純な願いをイエスに対して持っていました。しかし考えてみれば、見えない目を見えるようにしてほしい、ということを一体ほかの誰に願うことができるでしょうか。唯の人に誰がそんな大それたことを願うでしょうか。そんなことを願える相手は世の中に神の御子をおいて他にはいないのです。バルティマイは、それを認める信仰が与えられていました。このイエスというお方なら、きっと自分の目を再び見えるようにしてくださる。その信仰が彼に救いをもたらしました。彼は従ってゆくべきお方を見出して、イエスのために、イエスと共に歩む道を歩み出したのです。それが救いでした。
主イエスは、第1回目の受難の予告の際、言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8章35節)。バルティマイは、その中の一人に加えられたということです。そして彼は視力をもとに戻していただいたと共に、神の御子をはっきりと見て、神の国へとイエスの後に従ってゆく道を見出させていただいたのでした。
信仰は先ほども言ったように、私たちを救い主イエスによる救いにあずからせるための手段です。しかし同時に、信仰がなければ神に喜ばれることはできません(ヘブライ人への手紙11章6節)。そして信仰は、イエスに従って歩み始めます。その歩みは、初めは小さなものかもしれないし、頼りないかもしれない。しかし、主イエスは私たちの信仰の創始者であり、完成者でもあられます(ヘブライ12章2節)。この主イエスを見つめながら自分に定められている信仰の道を進みゆき、走り抜きましょう。主イエスを信じた者は、既に信仰によって救われたのですから。

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