「子ろばに乗ってエルサレムへ」2018.4.15
マルコによる福音書 11章1~11節

私たちの救いのためにこの世に来てくださった救い主イエスは、御自分の身にこれから起こることを承知の上で都エルサレムへ入って行かれました。エルサレムへ上って行けば、ユダヤ人の指導者たちに捕らえられ、異邦人のもとで死刑判決を受けて十字架にかけられることを知っておられました。ご自分の身に起こって来ることを予め知りつつ、それでもエルサレムへと向かってゆかれたのでした。今日の朗読箇所では、イエスがエルサレムへ入られる前に、子ろばに乗ってエルサレムに入られた様子が描き出されています。イエスがなさったここに示されている一連の出来事を通して、私たちは、イエスというお方がどのような方であるかをまた示されております。

1.子ろばを連れてきなさい
 主イエスとその一行は、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとべタニアにさしかかりました。オリーブ山は、エルサレムの東方にある山で、後に主イエスが祈りをささげられたゲツセマネの園は、このオリーブ山の西斜面にあります。ここにオリーブ山が舞台として出て来るのは重要です。ゼカリヤ書で、「その日、主は御足をもって エルサレムの東にある オリーブ山に立たれる」と預言されているからです(14章4節)。
イエスは、二人の弟子を使いに出して向こうの村へ行き、まだ誰も乗ったことのない子ろばを連れて来るようにと言われます。そして誰かがその理由を問うならば、「主がお入り用なのです」と言うように、ということまで弟子たちに伝えられたのでした。マルコは言及していませんが、ここで子ろばに乗られるということは、同じゼカリヤ書9章9節の、エルサレムにその王が子ろばに乗って来られる、という預言がその背景にあることが充分伺われます。マタイは、はっきりとそれを記しています(21章5節)。
 ここでイエスがこのようなことを言われたのは、どういうことかという点について、二つの見方があります。一つはイエスは、予めそのあたりの人に子ろばを拝借することを伝えておいて、頼んであった、ということ。もう一つは、そのようなことなしに、「主がお入り用なのです」という言葉によって、了解してもらえるということをご存じでそのように言われたということ。ここではやはり、イエスは予め頼んでおいたというよりも、その神の御子としての権威によって、ろばを使う、ということのために、特別なお力を用いられたのだと思います。主がお入り用である、という一言によって、そこに居合わせた人々を納得させることができる、ということです。そして、ここで言われている「主」という言葉は、子ろばの主、という言い方がされています。子ろばを飼っていた飼い主はいたでしょうが、その飼い主の上に、立つお方としてご自分がおられ、その主がお入り用であると言われることによって、飼い主が納得するようにされたということです。主イエスは様々な奇跡をなさいましたが、時にこのような、通常の人の力を超えたことをなさいました。たとえば、イエスとペトロの分の税金を納めるに当たって、ペトロに釣りをするように命じ、最初に釣り上げた魚の口を開くと銀貨がみつかるから、それを二人の分として納めなさい、と言われたこと(マタイ17章27節)、木の下に座っていたナタナエルを見ていたこと(ヨハネ1章48節)、などです。ですから、ここでもイエスは予め準備をしていなくても、そこに居合わせた人々が許してくれるように計らっておられたのだと思います。このように主イエスは、いろいろなことに対して主であられることを時にお示しになられました。

2. 子ろばに乗るイエス
 弟子たちが子ろばを連れて来ると、イエスはそれに乗ってエルサレムへ進まれます。人々は自分の服を道に敷き、またある人々は野原から葉のついた枝を切ってきたのでした。そして人々が叫んだ言葉は、旧約聖書の詩編118編に記されている言葉が背景にあるのです。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」(25、26節)。この詩は、エルサレムへの巡礼の旅をしてきて、エルサレムに近づいてきた巡礼者によって歌われたものです。王の詩編と言われるものの一つでもあります。
ここで人々が叫んだ「ホサナ」という言葉は、「今、救いたまえ」という意味があります。118編25節の「わたしたちに救いを」という言葉に対応しています。この言葉はヘブライ語ですが、その音の省略した形の「ホサナ」という言葉を口にしているのです。元々は「今、救いたまえ」という意味ですが、次第に祭りなどで神への賛美を献げる時の歓呼の呼び声として使われていたのだろう、と推測されています。実際に、マルコ11章10節の最後の行の「いと高きところにホサナ」という呼び声は、「ホサナ」という言葉を「今、救いたまえ」とすると意味がかみ合わなくなってしまいます。そういう点からも、「ホサナ」という言葉は既に単純な歓呼の叫び声となっていたようです。
 詩編118編の26節は、祭りのために都に来る人々に祝福があるように、という願いの言葉でしたが、エルサレムでイエスを迎え入れた人々は、それをイエスに当てはめて祝福した、ということでしょう。しかし、この人々がどれだけイエスというお方のことを理解していたかはわかりません。これほどの歓呼の声でイエスを向かえ入れたわけですが、すぐ後には、イエスを十字架につけろ、という叫び声をあげたのもまた、エルサレムにいた群衆だったのですから。

3.子ろばに乗ってエルサレムへ入る王
このような旧約聖書の背景の中で、イエスは苦難を受けるためにイエスはエルサレムに入られました。ただ歩いて入るのではなく、子ろばに乗って。そして人々の歓呼の声に迎えられて、王様がお城へ入って来るように、エルサレムに入って来られたのでした。これは王様としては実に変わった様子での入城です。力と権威を誇示して軍隊を引き連れて城へ入るのが普通の王の姿です。しかしイエスという王様は、まったく違う様子で城へ入られたのです。子ろばに乗る、ということがまず何よりも独特です。人々の中には、イエスに対してイスラエルをローマ帝国から解放してくれる政治的な王としての期待を抱いていた人々もいたことでしょう。しかしイエスは子ろばに乗って来るということでそれを否定されました。高ぶって権力を誇示するような王ではなく、小さなろばに乗り、へりくだったものとしての姿を示されたのです。
マルコの叙述はマタイやルカに比べると簡潔ですが、それだけに主イエスが子ろばの存在と、その使用について権限を持っておられることを単純に示し、全てを見ておられ必要なものを用いられることを明らかにします。また、人々がイエスを歓呼の声をもって迎え入れたことが率直に示されます。先ほど言ったように、後で群衆は手のひらを返したように「イエスを十字架につけよ」と叫ぶようになりますが、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という歌声は、神の国の王となられるべきメシア=キリストに相応しいものでした。群衆がイエスのことをどれだけ正しく理解していたかに関わりなく、彼らの叫び声は、真理を表していたのです。 今日の私たちは、イエスというお方をどのように見るか、ということを私たちはここから改めて問いかけられています。私たちは、イエスというお方の中に、何を見るでしょうか。自分のためにいつでも都合よく何でも揃えてくれる王様でしょうか。いつでも王座に着いて権力を行使する絶対的権力者でしょうか。私たちを苦しみや試練には決して合わせることのない方でしょうか。主はすべてを支配される王ですが、御自分がまず試練を受け、苦しみを受け、御自分の民のためにご自身を献げるほどに民を愛する王です。権力の座にふんぞり返っている王とは対極にあります。私たちを守り慈しんでくださいますが、何でも次々に与える気前のよい財産家のようではありません。私たちを神の子どもとして時には訓練し、強くしてくださいます。そして神をますますよく知るように導いてくださるのです。 時には、主が何を意図しておられるのか、よくわからない場合もあります。今日の箇所でも、二人の弟子たちは、子ろばを引いてくるに当たって、何のためだろうか、そしてなぜ、「主がお入り用なのです」と言ったら人々はあっさり許してくれたのだろうかと、不思議に思ったことでしょう。しかし後に、主イエスはこうして柔和な方、平和のもとに来られる王としてエルサレムに入り、ご自身を罪の贖いのために犠牲として献げることによって、私たちの王となってくださる方であると悟ったことでしょう。今日の私たちもこの弟子たちと同じように導かれているのです。

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