「自分の命を献げる神の子」 2018.3.25
マルコによる福音書 10章35~45節

 キリスト教会では、今日からイエス・キリストの受難週に入ります。救い主イエスが、十字架にかけられる道を進まれる一週間です。今年のイースター、つまりイエスの復活を記念する復活節は4月1日です。その一週間前にあたり、私たちは改めて救い主の歩まれた道のりを顧みつつ、今日朗読しましたこの聖書箇所から主イエスの歩まれた受難の道と、神の御子が私たちのためになしてくださったことを顧みる時を神から与えられています。

1.イエスが飲む杯、受ける洗礼
 主イエスはご自身が捕らえられ、苦しみを受け、殺される、という予告を3回にわたってなさいました。そしてその予告の度ごとに、その教えを理解せず悟れない弟子たちの姿が描き出されてきました。苦しみを受ける主イエスに対して弟子たちは誰が偉いかという議論を始めたり、今日の箇所のように自分たちが高い位に就きたいというような願いを主イエスの前に持ち出してきたりしたのです。最初の予告(8章31節)の後、イエスはペトロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて高い山に登り(9章)、そこで輝く姿を見せられました。受難の苦しみとは対照的な栄光に輝く姿を見せられたこの3人でしたが、イエスのそば近くにいつも置かれていた者たちだったにも拘らず、この頃の弟子たちはイエスのことをまだ十分には理解できておらず、情けない姿をさらけ出しています。
第1回の受難予告に際しては、何も悟っていないペトロがイエスをいさめました(9章32節)。第2回の後には、ヨハネが、イエスの名前を使って悪霊を追い出している者たちをやめさせたことを得意げに話していました(9章38節)。そしてこの第3回の予告の後には、ヤコブとヨハネの2人が、進み出て願いを申し出たわけです。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人は弟子たちの代表のような存在ですが、彼らの実態はこのようであったのです。彼らは、自分たちの先生であるイエスが御自分の受難を予告しても、栄光をお受けになる時に自分たちを右と左に座らせてほしいと言っています。彼らが思い描いていた「栄光を受ける時」とはどのようなものだったのかわかりませんが、山上の変貌を見ていた彼らは、イエスがやがて栄光を受けられると単純に期待していたのかもしれません。しかし主イエスが38節で言われたように、彼らは自分が何を願っているか、分かっていないのでした。そうであるにも拘らず、主イエスは、栄光を受ける前に受けねばならない苦しみを受けられるかと彼らに問われます。彼らは簡単に「できます」と答えます。それは、この時点で彼らにそれほどの覚悟が出来ているということではなかったでしょう。
さて、イエスが飲むことになる杯、イエスが受けることになる洗礼とは、これからイエスが受けることになる十字架の苦しみと死を指しています。杯も洗礼も、どちらも受難を表しています。それは、唯一人イエスだけが受けることのできるものですが、イエスは弟子たちもそれを受けると言われます。やがて主イエスが復活して天に昇り、聖霊が降られて福音宣教が力強く始まると、使徒たちも殉教するようになる、という点について主イエスは言っておられるわけです。実際ヤコブは、後にヘロデ王によって切り殺されてしまいます(使徒言行録12章1節)。

2. イエスの右、左に座る
 しかし、イエスの右、左に座れるかどうかということは、イエスの決めることではない、と言われました。イエスはあくまでも、苦しみを受けて多くの人々の罪を償うために仕える者であって、御自分の右、左に誰を座らせるかを宣言する立場にない、ということです。また、ある面ではヤコブとヨハネのことも考えておられるのではないでしょうか。今ここで彼らの願い通りになるかならないかの答えを出してしまうことは、彼らにも他の弟子たちにも良くないというお考えもあったのではないでしょうか。そして父なる神がお定めになった人がそこに座ることになる、と言われます。今は、それを知らない方が弟子たちは謙遜になすべき務めを行えるというものです。
 さて、これらのやり取りを聞いていた他の弟子たちはヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたのでした。それは、彼らが他の弟子たちを差し置いて自分たちだけ抜け駆けするように良い席を獲得しようとしたことへの腹立ちでしょう。結局人の世ではこのようなことがしばしば起こります。弟子たちの間でも例外ではありませんでした。誰かが高い位に就けば、他の弟子たちはそれをやっかむ。そして自分について卑屈になる。そして先生である方に対しても心穏やかでいられなくなる、ということはありがちなことです。
 そういう弟子たちの姿を見て取った主イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われます。主が弟子たちを呼び寄せられるときは、32節でもそうでしたが、非常に大事なことを告げられるときです。誰が一番偉いかの議論に時間を費やしたり、栄光を受けるイエスの隣で右左に座れるかを願ったりしている弟子たちに、もっと大事なことを教えられます。今回語られたことは既に9章35節で語っておられましたが、今回は特に、主イエスご自身が人に仕えるためにこの世に来たのだという点を強調されました。

3.自分の命を献げる神の御子
主イエスは弟子たちに対しては、すべての者の後になり、すべての人に仕えて僕となりなさい、と言われました。それは今日の私たちにたいしても同じです。しかしイエスご自身の場合はどうかというと、イエスが人に仕えるということは、ご自身の命を献げるということにゆきつくのでした。私たち普通の人間の間でも、命を献げて人のために働くとか、研究のために命を献げるというような言い方をする場合もあります。しかしイエスの場合は、命を献げると言ったら文字通り献げることになるのです。身代金として献げるのです。ここで言われる身代金は、奴隷状態になっている者を救い出して解放するために支払う代価、購入代金のことです。「贖い」とも訳されます。今日でも、誘拐犯やハイジャック犯に対して身代金が支払われると、誘拐された人や人質が解放されることがあります。時には人質に代わって誰かが身を差し出すこともあります。つい昨日、フランスのスーパーで起きた立てこもり事件で、人質の女性の身代わりになった警察官が、犯人に撃たれて亡くなったという悲惨な事件がありました。他者のために自分の命を犠牲にした警察官の行為は誰でも真似できるものではありません。しかし、神の前での罪の贖いを多くの人のためにしてくださったのが神の御子であり、その御子を差し出されたのが父なる神でした。
イエスの場合もそのようにご自分の命を差し出して身代金とされましたが、他の場合とは大きな違いがあります。それは「多くの人の身代金」と言われる点です。この場合の「多くの」とは、数十人とか数百人というような意味での「多くの」ではありません。特定の状況下にある限定的な人々を指しているのではなく、人類の歴史上のいつの時代、どこの国の人であれ対象となっている、ということです。イエスの支払ってくださった、「イエス」という身代金は、全世界共通で、古今東西どこであれ有効に働くものなのです。私たちもその対象なのです。誰かに誘拐されたり、人質にされたりした経験のある人はほとんどいないでしょう。しかし、神の前で「罪」のもとに捕われた状態になって自由を奪われているのが私たちです。私たちが神に対して罪を犯したがゆえに、自由に神に仕えていつでも善を行い、平和の内に祝福され、満たされた状態で居続けることが出来なくなっている。これが罪に捕われている人間の現実です。そこから私たちを救い出し、解放し、もう決して神のもとから離れないように、罪に捕われている私たちを贖い出すためにイエスはお生まれになり、十字架にかかってくださいました。
詩編作者は言いました。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない」(詩編49編8節)。人の罪は神に対して犯されましたから、神の御子がご自身という身代金を神に支払ってくださいました。パウロは書きました。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ1章13、14節)。 私たち人間の内、誰一人として「自分は神の御子に命を献げていただくほどの値打ちのある優れた、善を行える、正しい人間である」などと言える人はいません。神の御子という身代金に値するほどの人はただの一人もいない。ましてや、罪のない神の御子に、「私の身代金になってください」などと要求することなどできようはずもありません。そんな資格は私たちにはないのです。それにも拘らず、神の御子イエス・キリストは、私たちのために御自身を差し出して身代金としてくださいました。罪のもとに売り渡されて、罪に捕われて自由を失っている私たちを救い出してくださいました。贖い出すための身代金を支払うことのできない私たち人間に代わって、罪のない神の御子が身代金を払ってくださいました。これは人にはできないことです。だから神の御子がこの世に来てくださる必要があったのでした。私たちはそのような方のなしてくださったことについて、知らぬ顔をしていてよいはずがありません。この方を信じ、受け入れ、その身代金を有効なものとしていただいて罪から救い出していただくのです。そしてその後に、私たちも人を自分に仕えさせるのではなく、自分が仕える側になることを神の御子イエスから教えられています。

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