「限られた寿命の中で」2018.3.18
 列王記下 20章1~11節

 私たちには、寿命というものがあります。主イエスも言われました。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイによる福音書6章27節)、と。今日は列王記下に出て来るヒゼキヤ王が死の病にかかった、と言われているこの記事から、神の御言葉に聞きます。神が私たちにくださった寿命の中で、神の御前に私たちはどう歩むべきなのか、ということを教えられています。

1.寿命に対する見方
 寿命は、果たして人間の力で伸ばすことができるのか。これは人類がずっと問いかけ、探求し続けてきたことなのかもしれません。少しでも寿命を延ばしたい、という願いを人間は持っていると言えるでしょう。本能的に私たちは自分の命を守ろうとする行動をとります。命が与えられている以上、生きているものはみな、自分の命を保ち、それをなるべく延ばそうとするのだと思います。危険から身を守ろうとしたり、危ない場所や物には近づこうとしないのはその現われでしょう。そして今日では特に、医療に限らず、健康食品や健康に良いことについての関心が非常に高まっている時代かもしれません。何とかして少しでも若さを保ちたい、健康で長生きしたい。このために多くの研究がなされ宣伝がなされ、何かが健康に良いと言われればそれが流行し、大量に売れる、ということがしばしば起こります。では、何のために寿命を延ばすのか。健康を保ちたいのは何をめざしてもものなのか。実はその点が最も大事なのですが、ともすると健康を保つこと、寿命を延ばすことそれ自体が目的となってしまっているのかもしれません。それはちょうど、通信手段が飛躍的に発達しましたが、何を伝えるかが大事なのですが、とにかく早く鮮明に伝えられる。それが最大の目的になってしまっている。そんな傾向が少なからず現代にはあるのではないでしょうか。通信手段のことはともかく、命、寿命、というものについて今日は聖書から改めて神の御心を知りたいと願います。
 人が健康に気を使い、長寿を保つということはありますが、先ほどの主イエスの御言葉も合わせて考えてみますと、私たちの寿命というものは、私たちが自分で延ばすことのできないものであるといえます。六節では、主なる神がヒゼキヤに対して「わたしはあなたの寿命を15年」延ばすと言われました。寿命は主が人に与えるものです。そして主が人に定めておられるものです。

2.ヒゼキヤの信仰
そのことを覚えつつ、ヒゼキヤの身に起こったことについてみてまいります。彼は死の病にかかったと言われています。そしてイザヤは言いました。「あなたは死ぬことになっている」と。これはつまり死の宣告です。今日でも医師が患者に対して余命半年とか宣告することがあります。しかしそれと、ここでの預言者イザヤの宣告とは意味が違います。イザヤは、神がヒゼキヤの寿命はもうわずかしかない、と定めておられることを言っております。
この宣告を聞いたヒゼキヤは涙を流して大いに泣き、主に祈ります。彼は自分がこれまでひたむきな心を持って主の御前を歩んで来たこと、神の目に適う善いことを行ってきたことを思い起こしてください、と言っています。こんな風に自分のことを神の前に言える、というのは、よほどの信仰深い人でなければ言えない言葉ではないでしょうか。
実はこの出来事は、イザヤ書38章にも記されています。イザヤ書には、ヒゼキヤが、病気が治った後に歌った歌が記されています(38章8~20節)。この歌を見ると、ヒゼキヤがどんな思いを抱いていたかがよりよくわかります。彼は人生の半ばにあって世を去らねばならないことを嘆いています。この世を去れば、生きている時とは違って主を見ることもなくなり、もう人を見ることもない。消えゆく者の国に加えられるのだ、と言っています。ここで私たちは一つのことを教えられます。聖書の中に登場する人物は、特に旧約聖書の場合、人の死後のことについて今日の私たちが聖書全体から教えられているほどの知識を必ずしも持ち合わせてはいない、ということです。18節を見てもそれはわかります。「陰府があなたに感謝することはなく 死があなたを賛美することはないので 墓に下る者は あなたのまことを期待することができない」と言っているからです。つまり、ヒゼキヤは人が死んでしまえばもはや神を賛美することも神に感謝することもできなくなる、と考えているわけです。しかし、死後の魂が主に向かって呼びかける様子や神を礼拝する様子などがヨハネの黙示録には描写されています(6章9、10節、11章16節等)。
ヒゼキヤは死後の世界について十分な知識はもっていませんでしたが、とても大事なことを私たちに教えています。それは、生きているということは、神を礼拝できる幸いなことなのだ、という事実です。ヒゼキヤは、今この世で生きている自分は神を礼拝し、讃美し、感謝し、主を見ることが出来ると言っています(11節)。もちろん、主を見るといっても肉眼で見るわけではありません。信仰によって主を見ていたのです。

3.今日の私たちの信仰を顧みる
私たちはこのようなヒゼキヤの信仰から大いに学ぶ必要があります。確かに使徒パウロが言うように、私たちは今は鏡におぼろに映ったものを見ていると言えます(Ⅰコリント13章12節=古代の鏡はぼんやりとしか映らなかった)。また、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」ともパウロは言っています(フィリピ1章23節)。確かに私たちにとっては、この世を去り、栄光の神の国に迎え入れていただき、そしてやがて復活の恵みにあずかる。栄光の神の国ではもはや死も悲しみも苦しみも痛みもない。顔を合わせて主を見ることができる。それが最高の祝福であることは確かです。

その知識を私たちは聖書全体から教えられており、その点ではヒゼキヤよりも知識があります。ヒゼキヤが具体的には知らないキリストの降誕と私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったことも知っています。実はヒゼキヤについて歴代誌下32章にある並行記事には、彼は病気が直った後、「受けた恩恵にふさわしくこたえず、思い上がり」とあります(25節)。しかし後にへりくだりはします。ヒゼキヤと言えど完璧な信仰者ではない。私たちもそんなことを繰り返すかもしれません。しかし、それでも私たちはヒゼキヤに学べます。彼はこの世に生きて神を喜び、礼拝できることを何より大事にしており、日々主を見ていたからです。私たちは、この世で罪の残る体を持ち、弱さの中で苦しむがやがて神の国の素晴らしい祝福が待っているからその時を待ち望む。だからこの暗闇のような時代の中で、その希望を抱いて生きてゆく。確かにそうです。しかし、神礼拝の現実味、真実さ、この点でヒゼキヤに劣っているわけにはいきません。ヒゼキヤが神を喜んでいたほどに喜んでいるか。主を見ているか。それを顧みたいのです。
私たちがこの世で生きているのはせいぜい80年か長くて90年、100年です。200年はありません。クリスチャンになってからを考えればもっと短いわけです。その限られた寿命の中で、ただ天の国を憧れて仰いでいるだけではなく、今この時、一日一日を感謝し礼拝し賛美しつつ歩み神を見る。ヒゼキヤのようにひたむきな心を持って御前を歩むことは、むしろ私たちの方がヒゼキヤよりはるかにそうできるはずではないでしょうか。ヒゼキヤは、生きている時こそ主を礼拝できる、という切実な思いでひたすら死を悲しみました。それに対して私たちは死後の素晴しい祝福を信じているから、今を軽んじてもいいことにはなりません。今、今日という日に共に主を礼拝し、神を賛美し、感謝し、祈り、御言葉を味わい、主を喜び、その栄光を現わしてゆくものとしていただけるように祈りましょう。

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