「イエスの身に起こることを見よ」2018.3.11
 マルコによる福音書 10章32~34節

 主イエスは、エルサレムに上って行く途中で、3回にわたってご自身の身にこれから起こってくることについてお語りになりました。その内容は特にイエスが苦しみを受け指導者たちから排斥されて殺され、そして3日目に復活される、ということです。マルコによる福音書では8章から10章の各章でそれが記されています。主イエスは弟子たちにそれを語られるのですが、その都度、それを聞いた弟子たちがいかにそのことをよく理解していなかったかが明らかにされています。イエスのなさろうとすることに対する弟子たちの無理解が明らかになります。それは弟子たちとしては致し方ないと言えばそうかもしれません。イエスが神から遣わされたメシア=キリストであるなら、どうしてそのようなことになるのか、彼らにはわからなかったのです。

1.受難予告に対する弟子たちの反応
 3回にわたる受難予告の際の弟子たちの反応は、第1回目の時はペトロが主イエスをいさめ始めた、とあります(8章32節)。ペトロは、そんなことがあるはずはありませんから、そういうことは言わないでください、とでも言ったのでしょう(マタイ16章22節)。それを主イエスは叱って、「サタン、引き下がれ」と言われました。つまりペトロは全く理解していなかったし、それはサタンの企みに乗ってしまうことである、ということです。
 次に主イエスが受難と復活を予告されると、弟子たちはその言葉の意味がわからず、ただ怖れるばかりでした(9章32節)。そして3回目が今日の朗読箇所で、その後ヤコブとヨハネが進み出て言います。主イエスが栄光をお受けになるとき、自分たち二人を主の右と左に座らせてほしい、と(10章37節)。このことについては後日学びますが、要するに彼らは自分たちの誉れを求めているわけで、主イエスが栄光をお受けになるためにはどれだけの苦しみを受けなければならないかということをほとんど理解していないと言えます。
 今日はその3回目の予告について、主が言われたことをよく見ることにより、そこに示されていることから、主イエスの十字架の死と復活の意味を教えられます。8章と9章の予告は割と簡潔ですが、この10章の予告は、主イエスがこれから受ける苦しみと死と復活についてかなり詳しく描き出しています。33節と34節の内容をマルコによる福音書14章53節から15章32節あたりまでの記述からもう少し詳しく言うと次のようになります。
イエスはエルサレムで祭司長や律法学者たちに引き渡され、彼らはイエスに死刑を宣告します。彼らはユダヤの民の指導者たちですから、ユダヤの国の宗教的権威を持つ人々が、イエスは神の律法によって有罪である、と判定したわけです。自分を神の子であると証ししたのですから、それは神を冒涜することである、という理由で彼らは死刑宣告をします。つまり、単なる人が自分を神の子である、と宣言することは神に対する冒涜なので、死刑に値するというのです。しかし、当時のユダヤの国はローマ帝国に支配されていましたので、人を死刑にする権限を奪われており、そのために祭司長や律法学者たちは異邦人であるローマ帝国の総督にイエスを引き渡し、ローマ帝国の権威の下で公に死刑判決をもらおうとするのです。そしてローマ総督は裁判を行い、イエスを十字架刑に定めます。総督はイエスに罪を認めませんでしたが、ユダヤ人の暴動を恐れ、ユダヤ人の望むようにさせたので、イエスは十字架にかけられることになります。イエスを処刑場へ引き立ててゆく兵隊たちは、イエスを侮辱し、唾をかけ、鞭打って十字架にかけて殺します。しかしイエスは三日目に復活されます。これらの一連の出来事がイエスの身に起ころうとしていることです。イエスはこれらのことがご自分に起こって来ることをご存じでした。

2.イエスの身に起ころうとしていること
イエスはこのようにしてご自分の身に起ころうとしていることをお話しになりました。そしてこれらのことは先ほど言いましたように、福音書の最後の方に記されている通り、みな実現しました。イエスの身に起こることは、全世界の人々に対しての神の御心の表れでもあります。イエスの身に起こることは、私たち人間に関わることなのです。それは、人間を造られた神の、人間に対するお考えです。私たちは、何故イエスというお方がこの世に生まれたのか、このことをよくよく知らねばなりません。
私たちはこの世に人として生まれてきましたが、自分がこの世界に生まれてきたことの目的や使命を初めから知っていた人は、唯一人イエスのほかにはいません。人は人間がなぜこの世に存在し、何のために生きているのかを知ろうとして探求します。さらに個々人において、自分は一体何のために生まれてきたのだろうと考えて学び、先人の知恵に聞き、探求します。そうやって多くの人々が世界や人生について考え、思索し、その結果を書き記してきました。多くのすぐれた知者たち、哲学者たち、科学者たちが人間とこの世界、物理、化学、天文、生物について研究し、その知識と知恵を後の世に残してきてくれました。そういう世界の人々の歴史に名を残している多くの人々の中で、イエスはただお一人、まったく異なる存在としてこの世にお生まれになりました。初めから、この世界をお造りになった神がこの世界へ送るべき方として定めておられたからです。ですから、イエスは、御自分の生まれたことの意味と目的を探求することはありませんでした。イエスはご自分が神のもとから来られた方であり、世界が造られる前からご自分が存在しておられることを自覚しておられましたから、その語る御言葉は威厳に満ちていました。イエスの話を聞いた人たちが、他の律法学者たちとは違って、イエスは「権威」をもって語っておられると感じたのは当然と言えば当然のことです(マタイ7章29節)。そういうわけで、イエスがご自分の身に起ころうとしていることを話し始められたことは、単なる予測ではありません。この後苦難を受け十字架につけられて殺されるのは、この世にお生まれになったことの目的を果たすためだということを十分自覚しておられた上で語られたことでした。

3.イエスの身に起こることを見る
私たちは、イエスというお方と、この方の身に起こったこととを見ることにより、世界と私たち自身とを知ることになります。イエスは12弟子たちを呼び寄せて、そして受難と死と復活を予告されますが、その弟子たちと共にエルサレムへ上って行かれます。しかし弟子たちは、イエスが後に逮捕されると見捨てて逃げ去ってしまいます(マルコ14章50節)。主イエスはそれも宣告ご承知です。しかし、「わたしたちはエルサレムへ上って行く」と言われるのです(10章33節)。弟子たちは臆病で、逃げ去ってしまうのですが、イエスは弟子たちに苦難を予告し、弟子たちにそれをしっかりと見させるために彼らを呼び寄せ、エルサレムへ共に上ってゆくのです。
私たちは今日、既にイエスがエルサレムで辱めを受け、侮辱され、十字架につけられて殺されたことを知っています。イエスの復活も知っています。弟子たちのように、目の前でイエスが逮捕され、血を流してついに息を引き取られたのを目撃はしておりません。しかし、私たちもまたこの世で主イエスのもとに呼び寄せられています。共にエルサレムへついて来なさい。そしてそこでイエスの身に起こることを見なさい、と言われているのです。私たちはまず福音書の記事によって何が起こったかを読み、聞かされます。しかしそれだけではまだ見たことにはなりません。その出来事を信仰によって見るのです。私たちの罪を取り除くために神がお定めになったことがイエス・キリストによって成し遂げられた。そしてその出来事から2,000年も後の時代に生きている私たちをも、主イエスは身許に呼び寄せて受難と復活を宣言してくださっている。私たちはそれを信仰によって十分見なければなりません。主イエスは罪人のためにそのように十字架にかかって罪の償いを成し遂げてくださいました。しかしその罪人とは、抽象的な存在ではなく、私がその内に入ることを認めるか、そうでないか、という大きな分かれ目に立たされているのです。この「呼び寄せる」という言葉は、「自分の側へ取る」という意味の言葉です。神もイエスも知らず、聖書も知らずに生きていたこの私を、御自分の側に引き取って、迎え入れてくださった。これが私たちの身に起こったことです。
自分が主を信じる者となっていることを不思議に感じることがあります。それは、自分の意志ではなく、引き寄せられて、呼び寄せられてきている、という感覚があるからです。弟子たちはみな一方的に弟子とされました。主イエスに呼び寄せられ、イエスの身に起こることを話して聞かされ、十字架の死と復活の宣言を聞きました。それでも最初に言いましたように、弟子たちはそれをまるで理解できていませんでした。それでも主イエスは弟子たちを憐れみ慈しみ、子たちよ、と呼び、人間ではなく神が救うのだと言って身許に留まらせ、御自分の命を献げてくださいました。弟子たちのためにも、今ここにいる私たちのためにもです。このようにして主イエスのもとに呼び寄せていただいていること、それを避けられないほどにイエスのなさったことを見せていただいていること。そうしていただいた者は、主イエスの栄光を表わすようにと呼び寄せられたのです。

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