「生涯、私は主を呼ぶ」2018.1.7
 詩編 116編1~19節

 新たな年を迎えました。年末には詩編90編から神の御言葉に聞きました。同じ詩編から神の御声を聞こうとしていますが、確かに詩編は信仰者の祈りであり、感謝であり、讃美でありますから、その書かれている文書としての立ち位置のようなものは共通しています。大みそかにお話した時には、永遠なる神により頼む、という観点からお話をしましたけれども、今日は、私たち一人一人の生涯において主を呼ぶ、という私たち人間の側の姿勢という観点から御言葉を聞くことができます。主なる神から大いなる恵みをいただいているので、私はどのように主に答えようか、とこの作者も言っているように(12節)、主の恵みにどのように答えるかということをそれぞれ自分に当てはめて考えることができます。また、単に個人個人というだけではなく、家族・家庭として、教会として、という面からも考えることができます。いずれにしても、私たちはこの世に生かされている限りは、主を呼び続けます。

1.生涯、私は主を呼ぼう
 では、主を呼ぶ、とは何を意味するのでしょうか。私たちは祈りの初めにまず「天の父なる神様」とか「主なる神様」、「天のお父様」、「天地を創造された全能の神様」、あるいは素朴に「主よ」と呼びかけることもあります。人によってもいろいろです。しかし呼び方は違っても、主を呼んでいる。「主を呼ぶ」ことをまず始めたのはだれでしょうか。
 創世記にさかのぼってみますと、アダムとエバの二人の間に生まれたカインとアベルの兄弟がおりましたが、カインがアベルを殺してしまった後に、エバがセトを産み、さらにエノシュが生まれました。主の御名を呼び始めたのはこの時代のことである、と言われています(創世記4章26節)。では、それ以前の人々、特にアダムとエバは主の御名を呼ばなかったのでしょうか。アダムとエバが神に逆らって罪を犯し、堕落してしまう前は、人々と神との間には何の溝もなく、常に主の恵みのもとで守られていたはずです。ですから、その頃は何不自由なく日々暮らしていました。常に主と共にあって、何の不足もなく、困ったこともなく、日々平穏に過ごしていたわけです。しかし堕落した人間の世界はそうではなくなってしまいました。土は呪われ、人は汗水たらして苦労しなければ食糧を得られなくなってしまいました。産みの苦しみも始まり、人と人との争い、いさかいが生じてきました。カインがアベルを殺したのもその結果です。人は、心を尽くして神を愛することも、自分を愛するように隣人を愛することも出来なくなってきたのです。
 そのような中にあっても、神はご自身のことを人々に示さずにおられたわけではなかったので、主を呼び求める、ということをする人たちがいたのでした。それに対して主を呼ぶことなどせず、我が物顔でやりたい放題をするようなレメクのような人々もでてきたのです(創世記4章23、24節)。
 ということは、主なる神を呼ぶ人と呼ばない人。この二種類の人々がいた、ということがわかります。主を呼ぶ人は、主の力、恵み、導き、助け、などを求めます。反対に主を呼ばない人がすべて傍若無人にひどいふるまいばかりをしているというわけではありませんが、先ほどの創世記4章のレメクのように、神の前に逆らって罪を犯した人間は、そのままにしておけば、次第次第に神から離れてゆき、ついには自分の思うままに生きるようになり、糸の切れた風船見たいに神から離れ続けて行ってしまうのです。
 主を呼ばない人の中には、神を主と信じて生きてゆくことは、自分の人生を神に縛られて、自由を奪われて生きてゆくことだという考え方があります。確かに歴史の中で、教会の権力のもとに人々が置かれていた時代があって、そこから人間を自由へと解放することを目指し、伝統的な権威を否定し個性の解放・個人主義・自然美の発見などに向かう運動も起こりました。それが聖書原典の研究から宗教改革へとつながって行ったという面もあります。教会が権威を握ってしまい、民衆はただ権力のもとに服従している、ということから解放される、ということは確かに必要なことでした。しかし宗教改革が、神の御言葉そのものに目を向けさせたことにより、実は神のもとに生きることは、本当の自由を与えるものである、ということもまた真実として明らかになりました。
私たちも今日、主を呼び、神の御言葉に聞き従って生きることは決して人間の自由を束縛しているものではなく、実は真の自由を与えられているのだということを忘れてはなりません。先ほど糸の切れた風船と言いましたが、その風船は確かに人の手を離れて自由に飛んでゆくでしょう。しかしやがてしぼんでしまい、鳥につつかれるか、何かにぶつかるかして破裂し、落ちてゆく、という道筋をたどることになります。
私たちは神から離れて生きることで自由を得るのではなく、弱く罪深く、過ちを犯し、解らないことだらけの人間の力により頼んで危ない道を進んでゆくことになってしまうのです。その結果は、罪のもたらす悲惨の中から抜け出せないままでいることになります。それゆえ、主を呼ぶことのできる道に生きることは真に幸いなのであります。

2.主のもとに安らうがよい
 この作者は、主を呼ぼう、あるいは主を呼ぶ、主を呼び、と4回ほど言っています。主を呼ぼう、も主を呼ぶ、も原文は同じです。この詩全体が主の御名を呼ぶ、という行為そのものでもあると言えるでしょうが、狭い意味ではこの作者は4節の最後でまず「どうか主よ、わたしの魂をお救いください」と願っています。そして16節の1行目で「どうか主よ、わたしの縄目を解いてください」と述べています。
 私たちが主に対して呼び求める中心的なことは、やはり魂の救いについてです。この世での生活についてのあれこれの不足を満たしてもらうために呼び求めるのは二の次で、先ず私たちには神による魂の救いが必要です。主を呼ぶのはそのためであると言ってもいいのです。主イエスも、神の国と神の義をまず求めよ、とお命じになりました。そうすれば、その他必要なものは加えて与えられるのです(マタイによる福音書6章33節)。
 さて、この作者は、「弱り果てたわたし」とまで言っています(6節)。たとえ弱り果てたとしても、なお主を呼ぶことができます。これは本当に幸いなことです。私たちがこの世で様々な弱さを覚え、実際その弱さの中でもがき、自分の弱さと頼りなさを味わうのは、私たちが主を呼ばずには生きてゆけないものであることを思い知らせるためでなくて何でしょうか。そして主を呼ぶ者に対して、主は何らかの仕方で応えてくださる、とこの作者は信じています。私たちもそのように信じることができます。この人は「わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる」と言っています。自分の魂に向かって呼びかける、ということが詩編の中にはしばしばあります。そうやって自分をある面客観的に見て、自分が第三者にでもなったかのようにして自分を励ますのです。私たちも時にそのようなことをしてみてはどうでしょうか。
 そしてこの作者が自分の魂に向かって安らうが良い、と言える根拠は、主が自分に報いてくださるからだ、ということです。実はこの「報いてくださる」という言い回しは、報いる、とも訳されますが、行う、成し遂げる、取り扱う、善を行う、という意味のある言葉です。ここでは他の日本語聖書は「主はお前に良くしてくださった」(新改訳)、「主は豊かにお前をあしらわれたからだ」(口語訳)、「主は、お前をよく扱われた」(バルバロ訳)、「ヤーウェは、お前を恵まれた」(フランシスコ会訳)と訳しています。その方がここでは相応しいのではないかと思います。新共同訳では、主を呼んだことに対して報いてくださる、という意味で言っているわけですが、やはり私たちに対する主の答え、応答、行いは、恵みそのものであるからです。主が良くしてくださるのだから、安らうことができるのです。

3.主の御前に歩み続けよう
主が良くしてくださるのだから、安らうのですが、私たちは主を呼び続けます。この作者も「生涯、わたしは主を呼ぼう」(2節)、「わたしは主の御前に歩み続けよう」(9節)と語っています。魂を救っていただいたなら、もう主を呼び求める必要がない、ということではないのです。私たちはこの世で、様々なものや出来事に取り囲まれており、種々の誘惑を受け、試練を受け、人からも、何らかの出来事からも、自然現象からも時には困難なことに直面させられます。そのたびに私たちは主の助けを求めずにはおれません。先ほども言いましたように、私たちの弱さは、主を呼び求めるためのきっかけであり、そのために残されていると言ってもよいのです。そして、激しい苦しみに襲われるときもあれば、人は当てにならない、と不安になるときもあります(10、11節)。それでも主を信頼します。それは、主を呼び求めるごとに主が助け、救い出してくださった経験があるからです。それは主を呼び求め続けることで初めて知るものです。私たちも「生涯、わたしは主を呼ぶ」という確固とした信仰の決意をもってこの一年を歩み始めましょう。

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