「神には救う力がある」2017.12.24
  ルカによる福音書 2章22~38節

 イエス・キリストは神の御子であり、世に与えられた唯一の真の救い主である。この言葉は真実で、確かな神の御言葉によるものです。この確かな約束のもと、二千年この方、地上の教会は歩み続けてきました。そして、毎年、救い主イエス・キリストの御降誕を祝い、感謝してこの素晴らしい恵みの時を過ごしてきました。同時に、この素晴らしい神の恵みを全世界へ向けて語り告げ続けてきました。今、私たちの尾張旭教会も、その一員として、この世に生きる人々に向けて、その福音を語ります。既に信仰に導かれた信者は、言うまでもなくこうして礼拝に集い、救い主のご降誕を感謝し祝い、礼拝をささげています。それは、ひとえに、神が救い主をお遣わしくださったからですが、本当に神はイエス・キリストによって人を救うことができる、という確信を教会がずっと失わずに抱いてきたからです。今日は、その点、つまり神は私たち人間を救うとお約束くださった以上は、必ず救うことが出来る、その力と権威を持つお方であることを、今日の御言葉から聞きたいと願っております。
1. 主が遣わすメシア=キリスト
 イエスがベツレヘムでお生まれになった時、天使が野宿していた羊飼いたちに現れ、救い主がお生まれになったことを告げました。羊飼いたちはベツレヘムへ急ぎ行き、飼い葉おけに寝かせてある幼子イエスを探し当てました。そして人々に事の始終を話したあとに、彼らは再び元の場所へ帰って行ったのでした。
 そして、マリアとヨセフは、旧約聖書の律法で命じられている、子供が生まれた時に行うべきことを行いました。そのためにエルサレムの神殿へ行った時のことです。シメオンという人が幼子イエスを見つけて神をたたえて言ったのが29節から32節までに書かれていることです。シメオンは神の聖霊によって、この世に来るべきメシア、つまりキリストに出会うまでは決して死なないとのお告げを受けていました。シメオンは、赤ちゃんとして生まれたイエスを見て、腕に抱いただけでした。まだイエスがなさる業の何一つ見たわけでもなく、語られる御言葉を何も聞いておりません。彼は、ただ約束のメシア=キリストがお生まれになった、という事実を見ただけです。それでも彼は、その事実を知ったことで、もう安らかにこの世を去ることが出来る、と言っています。その幼子イエスが成長して人々の前に公に姿を現し、神の御言葉を語り、多くの人々の病をいやされるようになるまで待って、イエスのなさることを見極めるべきではなかったでしょうか。しかしシメオンにはそれはできませんでした。
 そもそもイエスがこの世にお生まれになったのは、世を救うため、世の救い主として必要なことを行うためです。十字架にかかって、私たち人間の罪を償われるためです。そして神は、そのことが起こる時に、信仰をもって生きていたある人を用いて、その人の口を通して神の御業が実現してゆくことを証しされました。神の御心は、国王に向かって直接救い主の誕生を告げ知らせるというようなことをしない、という形で明らかにされました。今日でいえば、どこかの大国の大統領のもとに天使が遣わされて、全世界に向けて大々的に救い主の誕生を大っぴらに告げ知らせるというような仕方です。しかし神はそうされませんでした。それは、今日のキリスト教会による福音宣教にも通じるものです。救い主の誕生は国家権力にもとで、その庇護の内に起こった出来事ではありませんでした。
この世の国家権力も、確かに神が整えられたものではありますが、神はそれらによって、世界中の人々に救い主の誕生を知らせるようにはなさらなかったのです。

2.聖霊に導かれたシメオン
このことは、今日の私たちの伝道とは宣教を考える時に大事な点であると言えます。福音は、世の中の力、人々の力、世俗の権力の力を借りずに人々の間に浸透してゆくのです。私たち一人一人の力は小さいかもしれません。いや事実小さいと言えましょう。しかし、その私たちを確かに用いてくださるのが主であられます。私たちが主を信じ、その約束を信じて信仰と祈りによって歩み、御言葉を道しるべとして歩んでいる中で、主が御業をなしてくださることを信じましょう。シメオンも、彼がほかに何か大きなことをしたとは書かれていません。ただ主の約束を信じ、聖霊の導きにゆだねて日々待ち望み、生きておりました。そして、おそらく人生最後の時にこの預言の言葉を語ったのでした。私たちは、聖書に残るような言葉を語るわけではありません。歴史の中に書き留められるような言葉を言い残さないとしても、信仰と祈りによって歩み、語る言葉は、神から来ているものです。神の御言葉に基づいて語る信仰の言葉は、主の救いを確かなものであると証しします。そして私たちも主のお言葉を信じて、平安の内に先へと進ませていただけることを信じましょう。
この29節以下は、シメオンの賛歌として音楽にも用いられている言葉です。合わせてたった10行少しの言葉ですが、実に意味深いことを述べている預言です。イエスというお方が救い主としてお生まれになった、というただそのことだけで、彼はもう主の救いを見た、と断言しています。これから成長してゆくイエスにいろいろなことが降りかかってきますが、すべては神の御手の内にあり、神の救いはこのイエスという小さな赤ちゃんによって確かに実現するのです。しかし彼の言葉は謎めいたことも言われています。この幼子は多くの人を倒したり立ち上がらせたりする。そして反対を受けるしるしでもあると。イエスの御生涯は決して静かな、穏やかなものではなくて、荒波が待ち受けています。そして多くの人の心の思いをあらわにしてしまうような、そういう人格であり、存在であり、御業をなさるというのです。しかしたとえどんなに反対を受けようとも、それは万民のために神が整えてくださったので、必ず多くの人を救うことができるのです。

3.万民のための救い
 万民のための救いですから、全世界のいつの時代においても、全人類に対してただこの方だけが神による救いを与えることが出来る救い主です。そして神が整えてくださったからには、神は必ずこの事実を全世界へ向けて広めてくださり、救いを施すことが出来るのであります。すべてのものの造り主なる神が、御自分のもとにご自分の民を引き寄せて救おうとなさるのに、計画倒れで終わるということは決してありません。
 私たちは、このような確実な神の救いが計画され、整えられていることを今、改めて心に留め、神の救いを思い巡らしたいと願います。神が整えられたのは、時であり、場所であり、そこに居合わせる人であり、人として生まれる神の御子です。イエスがお生まれになったのが今から二千年ほど前のローマ帝国の支配下にあるユダヤであったこと、生まれた時ベツレヘムに母マリアがいたこと、最初に救い主の誕生についての知らせを聞いたのは、社会的に最も貧しい階層に生きていた羊飼いたちであったこと、マリアの夫ヨセフは、メシアの登場を予告されていたダビデ王の一族のものであったこと。これらの出来事は、決してたまたまの偶然が重なったことではありません。シメオンがこの時まで生きていたのも、アンナという女預言者が神殿を離れず夜も昼も神に仕えていたのも、すべて、神が整えてくださっていたのでした。そして、このように整えることが出来る主なる神は、今言いましたように、それに関わる人々をも用意しておくことができるのです。
 それだけではなく、イエス・キリストという神の御子、救い主を巡って、人々の姿があらわになってきます。イエスを救い主と認めて信じ、受け入れ、より頼むのか。それとも、反対し、背を向けて、差し出され、提供されている救い主を受け付けないか、です。確かに私たち人間はそのようにしてイエス・キリストに対して二様の態度を取り続けてきたのでした。しかし神は、今は背を向けているような人であっても、その御力をもってその人の中に悔い改めと信仰を起こし、救いへと導くこともできます。天地を創造された主なる神は、私たち一人一人に対して、同じ御力を施して信仰に導き、イエス・キリストにより救いを与えることがお出来になるのです。

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