「不滅の命が現された」2017.12.10
 テモテへの手紙二 1章1~14節

 待降節も第二主日となりました。クリスマスを前にして、私たちのためにこの世に人としてお生まれになった救い主イエス・キリストの御降誕の素晴らしい意味を、私たちは今日の朗読箇所から示されています。救い主の到来と、その救いの恵みが、私たちの思いをはるかに超えた大いなる神の御心によっているということをここから教えられるのです。

1.テモテに宿った信仰
神の大いなる救いの恵みを学ぶにあたって大事なことは、この恵みは決して抽象的なものではなくて、具体的に私たちに当てはめられているのだということを、良く弁えておく必要があります。そのことをテモテの信仰から学ぶことができます。テモテは使徒パウロに教えられ、導かれて福音宣教者として立てられました。ただし、その職務に就かせられたのは神の恵みであり、神の御業です。このテモテは、まだ若く、伝道者・牧師としていろいろと苦労しておりました。パウロと共に伝道旅行をしていましたが、ある時からエフェソの教会に留まって、牧師として勤めておりました(Ⅰテモテ1章3節)。このテモテに対して、使徒パウロは手紙を書いて、彼を励まし、伝道者・牧師としてのテモテに必要な教えを書き綴ったのでした。
テモテはパウロとの別れに際して、涙を流したということでしたが、それは単に別れの寂しさというだけでなく、これから先の働きの大変さを思って不安になり、弱気になっていたのかもしれません。それはパウロが、「神の賜物を再び燃え立たせるように」とか、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別との霊をわたしたちにくださった」と言っていることからも窺えます。そしてそんなテモテを励ますためにパウロは、テモテに宿っている信仰について語ります。その信仰はテモテの祖母ロイスと母エウニケにも宿ったものであると言います。信仰とは誰かに宿るものであると。それは神の恵みであり賜物です。また、テモテには、使徒パウロによって手を置いてもらって与えられた神の賜物があります。テモテが正式に牧師として立てられた時にも長老たちによって手を置かれました(Ⅰテモテ4章14節)。これは今日でも、ある人が牧師・教師に任職されるときになされる按手です。どちらも、テモテが単に自分の熱心な伝道への思いによってだけこの働きをしているのではないことを証ししています。牧師・伝道者・教師の務めは、教会において神によって権威ある承認が与えられている、ということなのです。

2.神の計画と恵みによって
 まずパウロはそのようにテモテを励まします。そしてさらに、テモテがこのように福音宣教に携わることになったのは、テモテがパウロ同様、神によって救われているからであり、神の大いなる招きにあずかっているのだ、と続けます。神が私たちを呼び出されたのである、とも言っています。テモテもパウロも、宣教者として立てられているのは、彼らの才能や生まれながら持っている性質や、これまでに行ってきたいろいろな行いによっているのではありません。神の計画と恵みによるのです。 テモテが宣教者・牧師として立てられているのは、そういう根拠のもとで神から賜物を与えられているからなのです。その御計画は、昨日や今日に始まったものではありません。永遠の昔に既に与えられていたものでした。  ここには、本当に私たちの救いというものの確かな根拠が、神のもとにある、ということを表しています。私たちの行いによるのではない。これは実に感謝すべきことです。もしも、自分の行いによって救ってほしいと思うなら、それは神の前にある私たちの罪を知らないからです。私たちは神に対して自分の行いをもって神に救っていただけるようなものではない、と聖書は教えております。
 私たちの行いによるのではなく、神の計画による。それは恵みによるのでもありますから、神からの一方的な贈り物なのです。この「計画」という言葉は、決意、決断、目的、志などと訳されます。その計画には、神の決意が込められており、はっきりした目的があるということが示されています。テモテが主イエスを信じたその信仰は、彼の祖母と母にも宿っていたものでしたが、それは神の御計画によるものであり、その計画に基づいて神が信仰の道へと招き、呼び出してくださったことなのです。これは、私たちが主イエスを信じたのなら、テモテの場合と全く同じことであります。
 パウロはまた、その招きは聖なる招きである、と言っています。パウロは、ローマの教会へ書き送ったことがあります。「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(ローマ11章29節)。神は一度誰かを救いへと招いたのなら、それを取り消すことはありません。ただしこの招きは、例えば教会へ一度招かれた、とか伝道集会に招かれた、ということではなくて、神の御計画に基づいて、その人を救いへと導くために、いろいろな手段や機会を用いてその人が信仰を与えられ、罪を悔い改めて主イエスを信じるようになってくる、という、その人の中に起こってくる神の御業です。これこそ神の恵みです。
3.不滅の命が現された
 そして、この恵みは私たちの救い主イエス・キリストの出現によって明らかにされました。イエス・キリストの出現と言っても、ある時突然にキリストがこの世に姿を現したのではなく、今私たちが待降節を過ごしているとおり、神の御子イエス・キリストが人としてお生まれになって、神の御言葉を語り、神の御業をなされたことの全体を指しております。つまり、キリストの出現、即ちキリストの降誕は、神の救いの御業が最高に明らかにされた出来事でした。神による救いの御業は、この世界に対して目覚ましい天変地異や、華々しい出来事によって大々的に、派手に、万人の目に触れるように明らかにされたのではなく、ユダヤのベツレヘムの宿屋において、貧しい旅人のマリアとヨセフのもとに生まれた赤ん坊のイエスによって明らかにされました。このキリストは、その出現によって、私たちの命に関する大変大きなことを成し遂げられました。この10節の御言葉は、「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました」と記されています。ここは、「キリストは、片や死を滅ぼし、片や不滅の命を現してくださいました」という表現になっています。この二つを対照的に語っています。キリストは神の前に罪深い私たちの罪を償い、罪の赦しを与えるために来てくださいました。それにより、私たちから「死」を取り除いてくださり、永遠の命を授けてくださいます。そして死を取り除いてくださって、死に代わって不滅の命を現してくださいました。この不滅の命は、ただ単にいつまでも死なずに生きている、という命ではありません。もはや誰も滅ぼすことのできない命です。また、自分から滅びることも朽ちることもない命です。
 そもそも、命とは何でしょうか。命がある。生きている、というのは常に活動している、その命を持っている者が、自分以外のものと関わりを持っていることによって成り立っています。当然、私たち人間は、自分で自分の命を造ることも保つことも、寿命を好きなだけ伸ばすこともできません。命は人間にとって授かりものです。そして長くこの世で過ごす人もいれば、短い時間でこの世を去る人もいます。そういう時間の長さだけを見ると、人の一生は不公平にさえ見えます。しかし、神のもとではそうではありません。キリストによる不滅の命を神は与えてくださいます。
 しかし、人間は、この不滅の命がどれほど素晴らしいのかわかりません。長生きしたい、と願う人は多いでしょうが、それは、そこそこ健康で、好きなものも食べられて、家族もいて、この世に楽しいことがあるなら、長生きも幸せになるからでしょう。けれども、そうでなければ、悲しいことですが早くあの世に行きたい、ということだってあるわけです。そして私たちはこの世で文字通りいつまでも元気でいることはできないことを知っています。これはどうしようもありません。しかし神は不滅の命をくださいます。それは、滅びなることのない命。衰えていかない命。退屈でも寂しくもない命。神様との喜ばしい交わりを伴う命です。それを求める信仰も神がくださいます。この素晴らしい不滅の命を、救い主イエス・キリストによって与えていただける。それを信じて、私たちはこの待降節を今年も過ごします。いつこの世を去ることになったとしても、主の前に出られる備えをすることもまた、私たちの喜びとなるのです。キリストによる不滅の命を願い求めましょう。イエス・キリストの御名によって心から求める者は、神の確かな計画と決して取り消されない招きとによって不滅の命へと招かれていることを、その身によって現わしていると言えるのです。この命に生きることこそ、私たちにとって最も幸いなことです。そしてこの命の内で神をほめたたえ、その栄光を現すことが私たちに与えられた本分です。そのような者へと新しくしてくださるのが救い主イエス・キリストなのです。

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