「人生には愛が必要?」2017.11.5
  コリントの信徒への手紙一 12章31b~13章13節

 「人生には愛が必要?」というちょっと変わった題をつけましたが、この問いに対する答えはどんなものになるでしょうか。「そう、必要だ」、「いや、なくても生きてはいける」、「なくても何とか生きてはいけるかもしれないが、なければ相当寂しい人生になるのではないか」、と言った答えがあるのではないでしょうか。しかし、愛と言ってもいろんな愛があります。そういうことも含めて、聖書の教えに聞き、神は聖書を通してどのように教えておられるのかを聞き取りたいと願っています。

1.「愛」とは何か
 そもそも「愛」、とは何でしょうか。思いつく言葉を挙げてみると、博愛、人類愛、友愛、兄弟愛、隣人愛。これらは良い意味で使われます。溺愛、愛玩、愛欲などという言葉もあります。愛玩動物などといいますが、愛玩には大切に取り扱う、という意味がありますが、好み弄ぶという意味もあります。溺愛などは文字の通り愛に溺れてしまい、むやみに可愛がってしまい、相手を客観的に見ることが出来なくなってしまう状態です。いわば非常にものの見方が狭くなってしまっている状態です。つまり自分の好みとか意向、気持ちが優先していてそれが行動にも出て来るのでしょう。
 日本語でも同じ「愛」という言葉を使っても、意味合いが違ってきます。ちなみに漢字の愛という文字には、それとなくこっそりと歩く、という意味と、心がいっぱいになっているという意味があるそうです。
 国語辞典でみてみますと、①かけがえのないものとして大切に扱う、②有用のものとして手放すまいとする、③自分の好みに合ったものとして、深い興味を持って執着する、というような意味が挙げられていました。この内②と③は似ています。物に対してとか、趣味の問題であったりします。愛読書、とか愛着のある衣服とか。①は生き物、特に人に対するものが中心にあるでしょうか。こうしてみると、私たちには愛が必要かどうか、というよりも、実に色々な愛するものを抜きには人生を語れないということかもしれません。自分では気がつかなくても誰かに愛されており、自分も誰かであったり、何かを大事に思い、大切にしている。そういう中で生きているのが私たちなのでしょう。誰をも何をも愛さず、愛されずにいるというのは、なんとも味気のない無味乾燥な人生ということになってしまうのではないでしょうか。しかし、私たちが何かを愛するという時、それが歪んだ愛によっている、ということもあるのです。異常な愛着が罪に至る、ということがあります。たとえばアイドルに対する異常な愛着がストーカー行為を生み出し、犯罪となるということがあります。そのように一口に愛、といっても何でもよいわけではないと言えます。

  2.神から来る「愛」
 私たちが今学びたいのは、人間から出て来るいろいろな面を持つ愛ではなくて、神からの愛についてです。人間の愛には美しいものもあり、人間にも人や何かを大切に思う気持ちは確かにあります。しかし、やはり不完全で時には自分勝手な歪んだ愛があります。私たちにとってまず必要なのは、そういう不完全で歪んだ愛ではなくて、完全な愛、歪みのない愛、本当に相手のためになる愛です。人は何かを愛する時、その相手のためなら自分のことはさておき、その相手のためになることをする、ということがあります。自分のために何かを獲得しようとしてそのためになら大きな労力を払うこともいとわないということもあります。しかし人間から出たものは、相手のためを思ってやったことでも、実は相手のためになっていない、ということがあります。親が子どものためを思って何かをしてあげても、実は子どものためにならなかったということもあるわけです。
 しかし、神から出る愛は違います。先ほど朗読したコリントの信徒への手紙一の13章に書かれていた愛は、そのような神から出た愛に基づいたものとして愛のことを語っているのです。
 ここでは、いろいろな優れた行いと、愛が対比されて語られています。全財産を貧しい人のために使い尽くすとか、自分の身を死に引き渡すほどのことをしたとしても愛がなければ無に等しいし、何の益もない、というのです。完全な信仰があっても愛がなければ無に等しいとまで言っています。こうしてみますと、私たちが何か人から見て大変良い行いをしているとか、自分を犠牲にするほどのことをしているとしても、愛があるかないかで天と地ほどの違いがあるというわけです。
 それではその愛とはどういうものかというと、それは4節から7節までに書かれています。忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、不義を喜ばずに真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える、と。これだけ並べられると、誰でも、そんなことはとてもとてもできない、とおもうのではないでしょうか。ある程度当てはまることはできても、とてもすべてを実行できはしない、と認めざるを得ません。私たち不完全な人間にはとてもできない、ということがわかります。なぜなら、私たちはどうしても自分を中心に考えてしまい、すぐに苛立ち、礼を失してしまい、自分の利益を求めてしまい、自慢してしまうのです。そういう歪んだ面を持っている私たちには神様の前に歪んでしまっており、それを聖書は罪と呼んでいます。どこまでも真直ぐに純粋に愛することができないのです。
それでも、この手紙でこのように愛について言われているのは、これほどの愛を持つ神がおられるからです。神の内にはこのような愛があるのです。そもそも愛とは、人の心の中にあるものが何らかの形を取って外に出て来るものです。ひそかに心の中で愛している、ということもありますが、必ず何かの形で表れてきます。例えば愛する者を目にした時には、私たちの目はそれに注目しますし、気持ちが嬉しくなったり高ぶったり、ということがあります。それも愛が外に出て来たからです。そして何かの行動に移っていきます。神様も、完全な愛を持つお方としてその愛を人間に対して表してくださいました。この13章で言われていることは、読者に向かってあなたがたもこのように愛さなければならない、という言い方をしておりません。愛とはこういうものだ、と言っているだけです。もちろん、この教えの背後にそのように愛するべきである、という教えはあるのですけれども、まず私たちは愛とはどんなものかを知らなければならない。そしてこのような愛、完全な愛は神様だけが持つものです。
 最初に戻ってみましょう。私たちには愛が必要なのかどうか。やはり必要です。必要であるし、私たちは愛さずには生きていられないし、心の奥深い所で愛を求めているのです。そして私たちが不完全ではあるけれども誰かを愛したり、何かを愛したりするのは、神の完全な愛を少しだけれども映し出しているからなのです。
 私たちにはこのような人からの愛も必要ですが、もっと必要なのは、人間の不完全な愛にまさって私たちを愛して下さる神様の愛です。神様の愛は、神の御子イエス・キリストが私たちの代わりに罪の罰を受けて十字架にかかってくださった、ということに完全に現れました。イエス・キリストの十字架は、神様が私たちを愛してくださっている、ということの力強いしるしなのです。この愛は決して滅びません。いつまでも残ります。過去の美しいお話で終わりません。神様は今も私たちを愛してくださっています。この神の愛を知ってより頼むとき、私たちは本当の人生の拠り所を与えられたことを知ります。私たちは欠け多い、愛に乏しい者、弱く罪深い者ですが、そのような者を受け入れてくださる神の愛があります。私たちには神の愛が必要です。神の愛なしには実は私たちはこの世で生きてなどいられなかったと言ってもよろしい、それほどのものです。この神の愛を知って求める者に、神様は必ずご自分の愛の大いなることをさらに示してくださるのです。それを信じて神様の愛を受け入れ、そこに自分をゆだねる人生を送ることが何よりも幸いなのです。

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