「神様がくださる愛しき人生」 2017.11.26
ヨハネの手紙一 4章7~21節

 尾張旭教会だより第2号を10月に発行しました。「愛しき人生をつくれますか?」という題で少しの文書を書きました。読んでいただき、何がしかの興味を持っていただければ、そして教会の礼拝に集っていただいて、神様について、救い主イエス・キリストについて知っていただければと願って発行したものです。その際、「愛しき人生のつくりかた」というフランス映画を見た話を書きました。映画の内容はともかく、この言葉から私が思い巡らしたこともあって、このテーマを設定しました。果たして愛しき人生のつくりかたなどというものがあるのでしょうか。また、そもそも愛しき人生とは何か。こんなことも少し考えてみたいと思います。もちろん、そのことを通して、神様が聖書を通してどのようにお語りになっているかをよく聞き取りたいと願っています。

1.愛しく思えるほどの人生かどうか
 私たちがこの世で送る人生は、いったいどんな意味があるのか、どんな価値があるのか。これについて、ちょっと立ち止まって考えてみたことのある方は、結構おられるかもしれません。もしも、私たちの人生が大変重い価値のあるもので、大事なものであり、決して無意味ではないのだということが分かっていたらどうでしょうか。また、人生で経験することはすべて意味があり、後々に必ず役立ってくるのであり、ついにはこの人生が到達点に至って完成し、大きな報いを受け取ることが出来ると分かっているのならば、人の世はずいぶんと変わってくるのかもしれません。しかし、現実のこの世の中はそのようにはなっていません。
 過去を振り返ってみた時、とてもバラ色とは言えない。これから先を見通してみても、バラ色の未来が広がっているとは思えない。むしろ先行き不安で、自分の人生はどうなっていくのだろうと思ってしまうということもあるかもしれません。そうかと言ってあまり悲観的にばかり考えているわけにもいかないから、とにかく自分にできることをして何とか切り開いていこうと努力している、という人もそれなりにいるとは思います。前向きに自分の人生を築いていこうという、人生に対して積極的な生き方です。いろいろあるでしょうが、いずれにしても、自分の人生を愛すべきもの、愛おしく思えるもの、かけがえのない大事なものと思えるなら、それは良いことには違いありません。そして自分の人生を振り返るべき時が、大抵の人には与えられることでしょう。大抵、と言ったのは、人によっては突発的な事故や急病によって、そんな暇もなくこの世を去ることになる、という場合もあるからです。そんな頼りない私たちであります。そういう私たちではありますが、この人生を、本当に尊い、大事に思える、愛おしむことのできる人生にできるのであれば、私たちはそれを知りたいと思います。
 では、先ず旧約聖書を見てみます。イエス・キリストが生まれるはるか昔に書かれたものです。その旧約聖書に、「コヘレトの言葉」という一風変わった書物があります。この作者は、人生とかこの世について、空しい、という言葉を連発します。人の労苦は一体何のためであろうか。日は昇り、また沈む。川は海に注ぐが、満ちることはなく、同じことを繰り返している。太陽の下に新しいものは何もない。人の世は似たようなことを繰り返し続けている。この作者は、このように世の中のことを観察して知恵と知識を求めてきたけれども結局それは愚かなものだったと言います。そして彼は快楽追及の道へと進み、わざと愚かな道へと足を踏み入れたのです。そして事業を起こし、財産を獲得し、金銀を手に入れました。しかし、それらの結果を見ても、どれも空しかった、と言います。どれだけ財産を得ても、後を継ぐ者に残すだけとなるからです。それで結局、飲み食いして自分の魂を満足させることが最善だ、という結論に至るのです。しかしこの人は知っていました。そのようなものも実はそれは神からいただくものなのだ、と。そして彼は最後に、人間の本分とは、自分を造ってくださった神を畏れてその戒めを守って生きることだ、と。なぜなら、神は人のなしたこと、善をも悪をも全て裁かれるからだ、と。
 ここで教えられていることはとても大事なことです。造り主、万物の創造主なる神を信じて、神を畏れ敬い、戒めを守って生きることは、聖書が教えていることです。しかし、神を畏れて戒めを守って生きることは、なんだか厳しい訓練を受けているような、あまり喜ばしくないような、ちょっと愛しき人生というのとは違うような印象を受ける方もあるかもしれません。しかし神は、新約聖書の時代に至って、神の御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりまして、神を畏れて戒めを守れ、というご命令を与えた神が、実は私たち人間を非常に慈しみ、愛しておられるということを明らかにしてくださいました。
 そのことを非常に良く表しているのが、先ほど朗読したヨハネの手紙一の四章に記されていることでした。神は、私たちの罪を償ういけにえとして御子キリストをお遣わしになったとありました(10節)。先ほど、私たちのこの世での人生は決してバラ色のものではない、と言いました。それはもう誰が見ても変わらない事実です。悲しいこと、嘆かわしいこと、つらいこと、痛いこと、嫌なことがあちらにもこちらにもあります。それらは、突き詰めると人間が神に対して背を向けているがゆえの報いであります。誰からの個々人のせいではありません。全人類のものです。それを聖書は罪と呼んでいます。それは神に対するものですから、神に対して償わねばなりません。神に認めていただくには完全な償いが必要です。それは人間が少しばかり良い行いをしたからと言ってできるものではありません。完全な償いをするためには神が用意してくださった償いの供え物(いけにえ)が必要なのです。それがイエス・キリストです。
 神がこのように完全な償いとなる神の御子キリストを送ってくださった、ということの中に、神の愛が示されています。神が私たちをまず愛してくださった。神は愛である。そしてもし私たちがその愛を知り、神の愛の内に生き始めるなら、神は私たちの内に留まってくださって、私たちと共にいてくださる。神はまずそのように私たちに御自分のことを現してくださいました。ここからすべてが始まるのです。私たちの人生が本当に愛しきもの、愛おしむべきものになるかどうかは、そこにかかっているのです。

  2.神がくださる愛しき人生
 神が私たちを心にかけていてくださる。そして、私たちの人生を意味あるものとし、価値あるものとしてくださる。それゆえ、私たちも私たちの人生を愛しきものとして受け止めることができる。これが今日、お伝えしたいことです。しかしながら、神を知る前も後も、実はこの世で起こってくることに、嬉しいことも悲しいことも、楽しいこともつらいこともあることには違いがありません。そうではあっても、神が私たちの人生を導いておられ、神の目が注がれており、神が私たちを愛しておられる、という事実によって私たちは支えられて生きてゆけます。
 神が私たちを生かしておられる。そして私たちがこの世を去る時も定めておられます。そのことを知る時、私たちはすべてのものを見る見方が異なってきます。私の身に起こってくることは、決して偶然や運によって左右されているものではなくて、一つ一つが神の御手の中にあることを知ります。ただし、私たちは神のなさることをすべて見極めることはできません。私たちが見極めることはできなくても、神はすべてを見通しておられます。
 私たちは自分の人生、自分の境遇、生い立ち、見た目と言ったものを考えてみてみた時、どう思うでしょうか。もっと良い境遇に生まれればよかった。もっと良い容姿を持って生まれてきたかった。もっと何かの才能がほしかった。もっと、良い出会いがあればよかった。もっと良い時代に生まれたかった。こうしてもっと、もっと、が続いてしまうでしょうか。しかし神はそうされなかった。では神は不公平なのか。神は私たちの思いを超えて、御心に従ってすべてをなさいます。人と比較しても意味はありません。ある人は特別な才能があり、人類に大きな影響を与えるでしょう。ある人は、国の指導者になるでしょう。ある人は優れた芸術家になるでしょう。しかし多くの人には特別なものはなく、いわゆるごく普通の人生を送ります。しかしその普通の人生も山あり谷あり、順境も逆境もあります。そういう一見どこにでもありそうな人生だとしても、それは神と共にある時、素晴らしい光を放ち始めます。それは神がくださるものです。神の光の下で一切のものを見る時、自分に与えられたものに神の御心が込められていることを知るようになります。そして何よりもイエス・キリストに出会う、ということにおいて、神は私たちが最高に自分の人生を愛しきものとできるようにしてくださるのです。主イエス・キリストに出会って人生を始めることができる。これこそ神がくださる愛しき人生の出発点です。それは、病も、災いも、寿命も、死すらも私たちから奪い取ることができないものです。そこには私たちに注がれている神の愛があるからです。そして神を愛する者のために神は万事が益となるように働いてくださいます。このような人生こそ、私たちに神が与えてくださる愛しき人生であります。

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