「主の慈しみに生きる」 2017.9.17
サムエル記上 2章1~11節

 私たちは、何により頼んで生きているのでしょうか。言い換えれば何を拠り所としているか、または何によって生きているのか、ということです。今日はこのことを、旧約聖書のサムエル記にあります、ハンナという女性の祈りから学びます。

1.ハンナの祈り
 この書物の題名となっているサムエルは、旧約聖書の中でも、とても重要な人物であって、神と人々との間に立ってとりなしをする、という点では、モーセと並んであげられるほどの預言者の一人です。ハンナは、そのサムエルの母親となりました。彼女は、なかなか子供が与えられない状況の下で、主の前に祈りをささげておりましたが、主がサムエルを与えてくださったのでした。そこで彼女は感謝をもって主に讃美と祈りを献げています。
 聖書の記事の中には、女性のなしたことや、讃美、祈りが記されております。士師記5章には女預言者デボラの歌があります。このハンナの祈りに似ている者として、良く引き合いに出されるのが、主イエスの母となった、マリアの賛歌です(ルカ2章)。弱い者を引き上げ、立ち上がらせてくださる、というような表現に共通するものがあります。
 ハンナは単に個人的なことで思いを披歴しているのではなくて、世の中一般のことを念頭に置いて、主が人に対してどのように相対しておられるか、ということを語っています。ハンナの祈り、として書かれていますが、内容的には主の御業を述べることと、主への讃美の言葉です。感謝も讃美も、大きなくくりのなかでは「祈り」に入るということもまた、ここで一つ覚えておきましょう。そして、主なる神は、一人の女性の口を通して、主なる神とこの世についての真理を語るように導いておられるのです。

2.神と人との隔たりを知る
この感謝と讃美の言葉では、まず、人は神の前にへりくだるべきものである、ということが明らかにされています。そして主は人を高くすることも低くすることもできるお方です。さらには全世界に対して、王として裁きを与えるお方である、と歌われます。
まず、私たちは神と並ぶ者がない、ということをよくよく覚えねばなりません。日本のように多くの神々が信じられている国では、神様が簡単に作られています。少々優れた人はすぐに神様になってしまいます。しかし聖なる方は主なる神のみです。天地を造られた神のみが、神と呼ぶに値します。日本では「聖」と書いて「ひじり」と読めば、徳が高く、多くの人の師と仰がれる人や、高い位の僧、ある方面での超一流の存在のことを言うようです(棋聖など)。
しかし真の神は、「何事も知っておられる神 人の行いが正されずに済むであろうか」(3節後半)と言われるお方です。ここは、「人の行いは主によって量られる」という訳もあります。人の行いがどれだけ常人から抜け出ていようが、他の人の遠く及ばない技能・知識・知恵を身に着けていようが、主の前ではすべて量られているのです。
それは、主が天地の創造者であり(8節後半)、それゆえ人に命を与え、またそれを取ることもできるからです(6節)。そういう方であるからこそ、人を高い位に就けることも、貧しくし富ませることも、低くし、高めることもできるのです(7節)。そのことをよく弁えていないと、この世において、権力を得たものが、あたかも自分の力と才能と知恵によってそれを勝ち取ったと思い込んでしまいます。そういう権力者は世の中に一体どれほどいたことでしょうか。およそ権力の座についている者はほとんどがそうかもしれません。主は、通常は世の中にいろいろな権力者をお立てになっています。それは世界中で国が建てられ、秩序が保たれるために必要な面があるからです。しかし人はそれをいいことに思い上がってしまうのです。けれども、主はお定めになった時には逆らう者を打ち砕かれます。立てられる王には力を与え、特に主がこの世にお送りくださる油注がれた方(=メシア)を高く上げられるのです。
私たちは、まず、この世界がそのように主によって造られ、保たれていることをよく心にとめておくべきです。

3.主の慈しみに生きる人の幸い
 そのようなこの世界の中で、主は「主の慈しみに生きる者の足を守られる」のです(9節)。主の慈しみに生きる者、と訳されている言葉は、実は一つの語であって、「聖徒」と普通訳されます。「神に忠信な人」という訳もあります。とにかく主に従う人、主の民のことです。なぜ主の慈しみに生きる人、という訳が出て来るかというと、もともとの言葉が「慈しみ」という言葉だからです。つまり主を信じて生きる主の民、聖徒たちは、主の慈しみによって生かされており、主の慈しみにより頼んで生きているからです。それは、主の慈しみの中で生きている、という意味でもあります。
 さて、私たちは主の慈しみに生きている者でしょうか。主の慈しみにより頼んで生きている人は、主の慈しみを心から喜んでいる人です。心から主を喜んでいる人です。そうでなければ、主の慈しみにより頼んで生きているふりをしているだけのようなものになってしまいます。私たちは主の聖徒のふりをすることはできません。主の慈しみに生きる人は、他のものにより頼むよりも、主により頼み、主に一切を任せようとします。
「人は力によって勝つのではない」とは、9節前半からすると、主に対して人の力で勝つことはできない、という意味です。人がどれほど知恵と知識と先端技術を獲得しようとも、主に対して力で勝つことはできません。もちろん、知恵や知識でも勝つこともできません。清さでも、正しさでも勝つことはできません。そういう主の前に、逆らう者は打ち砕かれてしまいます。
こうしてみると、ここに示されている主は、いかにも恐ろしい方という印象があるかもしれません。しかしここで言われているのは、究極的なことです。主はついには確かに逆らう者を打ち滅ぼされるでしょう。けれども、同時に主は逆らう者に手を差し伸べて、悔い改めることを忍耐深く待っておられる方でもあります。
「わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出されるものとなり わたしを求めようとしない者にも 見出される者となった。わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べて来た」(イザヤ65章1~2節)。
このような方が私たちの主なる神であられます。もし主が忍耐深く私たちに手を差し伸べてくださらなければ、私たちもまた、逆らう者のままでい続けたことでしょう。逆らう者をも、主の慈しみに生きる者へと造り変えることが出来るのもまた主であられます。主を信じた人は、自分の力によって主の慈しみに生きる者へと生まれ変わったわけではありません。
最初に、このハンナの祈りに似たものとしてマリアの賛歌をあげました。そのマリアが母となった、神の御子イエス・キリストこそ、その御力によって私たちを砕き、主の慈しみにより頼む者へと生まれ変わらせてくださったお方です。この方こそ、私たちのための油注がれた者なのです(サムエル上2章10節)。

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