「祈らなければできないこと」 2017.10.8
 マルコによる福音書 9章14~29節

 今日の私たちは、科学隆盛の時代に生きています。ノーベル賞の受賞者が発表されましたが、科学の最先端にいる研究者の方々が、科学万能だという考え方を必ずしも持っているとは言えないでしょうし、科学的な人間の営み自体も、神のかたちに造られている人間のなせる業であることもまた事実です。文学賞もありますが、文学の世界では現実から離れた空想の世界のことも語られます。そしてそこから現実の世界を投影したりして、今生きている私たちに何かを問いかけている。やはり人間は、数字で割り切れるものではない、何ものかを持っていることを多くの人が感じているのでしょう。そこには目には見えない何かがこの世界には存在している、という思いも込められていることでしょう。目には見えないこと。しかし確かに存在していること。私たちは聖書からそれを教えられています。もちろん神様のことです。そして私たちは、目には見えない神様に祈ります。そこには信仰があり、信仰がなければ祈ることもありません。しかしそれがどんな信仰であるかもまた、大事な点です。今日は、主イエス・キリストが悪霊を一人の少年から追い出された出来事を通して、私たちの祈りと信仰について教えられております。

1.なんと信仰のない時代か
 9章13節までの山上の変容のお話では、イエスの神の御子としての栄光が現されていました。しかし、それとは対照的な弟子たちや人々の姿が今日の朗読箇所では明らかになりました。イエスと三人の弟子たちが山から降りると、他の弟子たちが律法学者たちと議論していました。弟子たちが少年から悪霊を追い出すことができなかったので、人々がイエスの力と権威について疑いを抱き、それに対して弟子たちが何らかの反論をしていたのでしょう。
 父親の説明によると、この少年は癲癇ではないかと今日的には言われています。症状が癲癇だとしても、その背後にはやはり何らかの霊の存在があるわけで、それだからこそ、イエスの「出て行け」、というご命令に対して、叫び声をあげて少年をひきつけさせて出て行ったのでした。そしてイエスが手を取って引き起こすと立ち上がったとありますから、この時にはすでに普通の状態に戻っていたわけです。これらのことを、イエスが命令したとたんに偶然激しい引きつけが起こって少年が倒れ、気を失ったがすぐに普通の状態に戻ったのだ、と言ってしまうことはできません。やはりイエスが確かに霊に対してお命じになることによって、霊は出て行ったのです。
さてしかし、弟子たちはこの霊を追い出すことができませんでした。主イエスは、「なんと信仰のない時代なのか」と言って嘆かれました。このみ言葉は、弟子たちも含め、その時代の人々に対して言われた御言葉です。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」と言っておられるように主イエスはやがてご自分が天の父なる神のもとへ帰られることを知っておられます。いずれはご自身が皆の前に姿を見せなくなる時が来ます。それは遠からずやってくる。十字架の死と復活、昇天という出来事です。それなのに弟子たちも人々も、イエスがいつまでもおられるかのように頼っている。たとえ主イエスの姿が見えなくとも、信仰があれば、神に頼ってこの世で強く歩んでゆけるはずである。しかし現実に人はそうではない。そのことを主イエスは目の前にまざまざと見せつけられて嘆かれましたが、それでも、今、霊に取りつかれて苦しんでいる少年を助けることをなさいます。主イエスは、人々の不信仰を嘆きながらも、なお、憐れみをもってその御力を発揮してくださるのです。このことは、今日も全く同じではないでしょうか。「なんと信仰のない時代なのか」と主イエスはなおさら今日のような時代に対して言われるのではないでしょうか。今の時代、多くの人々は息苦しく、生きづらさを感じているのではないでしょうか。宗教を胡散臭く見るけれども、では人々は何を信じればよいのかといえば、それを見いだせないでいる時代です。
しかし、ここに私たちが信ずるべきお方が与えられています。人を束縛し、苦しめている者から解き放ってくださるイエス・キリストがおられます。私たちは、このお話から、二つのことを教えられています。

2.信仰のないわたしをお助けください
その内の一つが、信じる、ということの重要さです。ここに登場する父親は、イエスの前で、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願いました。あたかも、弟子たちができなかったように、もしかしたらイエスにもこの少年を癒やすことはできないかもしれない。しかしできれば、直してほしい。取りついた霊から救ってほしいというのです。イエスは「『できれば』、というか。信じる者には何でもできる」とお答えになりました。この父親の願いは、もしイエスに癒やす力があるなら直してほしい、もしその力がないなら仕方がない、という意味合いに聞こえます。この父親には、信仰と不信仰とが共存しています。何らかのイエスに対する信仰があったからこそ、彼は弟子たちにできなかったことを、できればイエスにしてほしいと願ったのでした。しかし、イエスにお任せすれば必ずかなえていただける、という強い信頼までは抱いていなかった。それゆえ彼は信仰の無い私をお助けください、と自覚した叫びの声を上げたのでした。
ここでイエスはこの少年から霊を追い出して、癒されました。そしてイエスは父親に対して、信じる者には何でもできる、と言われました。しかし父親の信仰は不信仰と共存している不完全なものでした。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という叫びは、信仰のない私ですが信じます、と言っているわけです。そんな矛盾しているような父親の信仰ではあったものの、イエスは少年から霊を追い出され、二度と入ることを許しませんでした。不完全な、不信仰と混ざっている父親の信仰でしたが、ひたすらイエスに求めるその願いを聞いてくださったのでした。私たちは、ここに信仰というものの姿を見ます。決して疑わない、立派な、何事にも動じない岩のような信仰を持っていて初めて主イエスに、そして父なる神に聞いていただけるのかというと、そうではなく、主イエスは、たとえ信仰のない私をお助けくださいという願いであっても、ひたすら求める者に答えてくださるのです。

3.祈りによらなければできないこと
もう一つは祈りです。少年から霊が追い出され、事が収まると弟子たちはイエスに尋ねます。なぜあの霊を追い出せなかったのでしょうかと。するとイエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。以前に主イエスは12人の弟子たちをあちらこちらに遣わすに際して、汚れた霊に対する権能を授けられました(マルコ6章7節)。そのとき弟子たちは多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒やすことができました(同一三節)。彼らは、悪霊に対して、力を発揮することができたのです。しかししばらく時間が経っている今回の場合、弟子たちにはその力がありませんでした。
ここに、非常に大事なことが教えられています。たとえ神の御子イエスが力を授けたとしても、それを受けた弟子たちが、まるでテレビのリモコンを手に自由しているように自由に悪霊を追い出すことができるわけではないということです。リモコンも、電池がなければ利かなくなってしまいます。リモコンなら電池を新しくすれば、また働くでしょう。しかし、霊に対して、つまりある意志を持ち、活動する者を、自由に操ることなど私たち人間の勝手気ままにできることではないのです。弟子たちが追い出せなかったのは、主イエスが祈りのことを話しておられるように、祈りが足りなかった、いや、祈りがなかったからです。祈りなしにはイエスからいただいた力でさえ、きちんと用いることができないのです。これは、今日の私たちの信仰において、決定的な事柄です。今日のような時代の中で、神に祈る人、ましてやイエス・キリストの御名によって祈る人は一体どれだけの割合でしょうか。特に日本では本当に少数の人に限られています。祈らない人は言うかもしれません。「クリスチャンが祈るのは自由だが、私は祈ったりしない。いるのだかいないのだかわからない、目に見えないから本当に存在しているのかどうかわからない神になど頼らないで、目に見えていること、現実に働く力にだけより頼む。人間の内にある知識、能力、人類が築いてきた科学技術や知識に信頼する。霊とか神の存在など認めない。従って祈ることなどしないし、する必要もない。現に祈らなくても、毎日無事に生活しているし、そこそこ健康だし、仕事も何とか続けられている。そればかりか、それなりの業績もあげ、社会的にもそれなりの存在になっている。隣のクリスチャンは祈っているようだが、家族は病気だし、仕事も苦労しているように見える。祈って生活しているからといって、いったい何の得をしているのかわからない」と。
しかし、人を創造し、生かしておられる天地の主である神が命じておられます。神の御子なるイエスに聞きなさい、と。そしてそのイエスは言われます。私の名によって祈りなさい、と。そうです。私たちはイエス・キリストの御名によって祈るべきです。祈らなければ、悪霊どころか、私たち普通の人間すら動かすことはできません。まず自分自身が変わることはありません。主イエスは、悪霊を追い出すことについて、この種のものは、と特に限定しておられますが、悪霊追放に限ったわけではありません。何をするにしても、祈ることなしには何もできないと言ってもよい。それは祈る、ということを知って、祈り始めるとわかってきます。祈らなくても、確かに一見何も変わらないように見えてしまう。そして、ある程度はそれなりに事が運んでいくかもしれません。しかし、ある所に来て、この弟子たちのように、できるはずのことが出来ない、という状態に陥ってしまうのです。何だかおかしい。うまくいかない。このような時こそ、私たちが祈る時です。弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったのは、追い出そうとする前に祈らなかった、というだけではないでしょう。
主イエスから力をいただいたときは、弟子たちは新鮮な思いで緊張し、畏れを覚えつつ悪霊を追い出し、病人を癒やしていたことでしょう。しかし時間の経過とともに祈りが少なくなってきた。悪霊が皆出てゆくので、それが当たり前のようになってきた。そして、神の前にへりくだって祈りをささげることがなくなってしまった。そんな弟子たちの状態と、結局イエスの手を煩わさなければ何もできない人々の姿を見て、その不信仰を嘆かれたのです。信仰がないところには、祈りもありません。しかし祈りのある所には信仰があります。私たちには特別の悪霊を追い出す力は授かっていないかもしれません。しかし、信仰による祈りがささげられている所では、神の前に祈りは届いています。そうであれば、神が祈りに応えて、きっと手を打ってくださいます。長年祈ってきたが聞いていただけないようなので、もう祈ることはやめる、といってしまえばそこまでです。そこで信仰は止まってしまいます。神の御子であるイエス・キリストでさえ、世を徹して祈られたことを思い出しましょう。そして、祈り始めましょう。家族のため、教会のため、自分のため、世のため人のため、社会のため、自分には何ができるか、と時に人は考えるものです。しかし、何かをしなければならない、何をしたらよいだろうか、と思い巡らす前に、主イエスが授けてくださった「祈り」という手段によって神に近づきましょう。祈りの時間の長さや熱心さが私たちを救うわけではありません。そこは間違ってはいけません。しかし、神は、祈りという手段を用いて、それに応えるという仕方で恵みを注いでくださるのも事実なのです。そして、神は私たちが祈る前から実は多くの恵みを注いでいてくださったことを思い出しましょう。信者でないときには、イエス・キリストの御名によって祈ることなどしていなかったのが私たちです。しかし神は、私たちが祈る前から様々な手立てを用いて私たちを神様の方へ、イエス・キリストの方へと導いてきてくださったではないですか。それを思い出せば、信じた後に熱心に祈ったからといって、それを自分の功績にすることはできないはずです。祈ることは、自分のために功徳を積むことではなくて、神との親しいつながりを保ち、神に近くあるという生活そのものであり、生きていることそのものなのです。祈ることによって私たちは、神が本当に生きて働いておられ、私たちを愛し、導き助けてくださり、ついにはイエス・キリストによって私たちを神の国へと招き入れてくださり救ってくださる方であることを真に知るようになるのです。私たちのために今も天においてとりなし、祈りの手本を示してくださった主イエス・キリストにより頼みましょう。

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