「神の言葉で日々新たに」 2017.10.29
詩編 119編105~112節

 今日は、宗教改革記念礼拝として献げています。私たち日本キリスト改革派教会は、プロテスタント教会の一つですが、その中でも、16世紀の宗教改革者ジャン・カルヴァンの指導した教会の伝統の中にあります。しかしカルヴァンも一人で全てを行なったわけではなく、その前に登場したマルチン・ルターを代表とする改革者の中の一人です。その時代に神は信仰者たちに働きかけて、時代の中で宗教改革という大きなことを導かれました。この宗教改革という歴史に残る出来事も、信仰者たち、改革に立ち上がった人たちが、神の言葉にへりくだって真剣に耳を傾けていたからこそ起こったことでした。そうでなければ起こり得なかったことです。今日はそのことを踏まえながら、この詩編の御言葉に聞きたいと思っています。

1.神の御言葉
 この119編は、全部で176節ありますが、8節ずつに分かれており、各まとまりの最初の行の前に(ヌン)とか(サメク)とか記されています。これは旧約聖書が書かれたヘブライ語のアルファベットの名称で、例えば105節から112節までは、各節の最初の文字がみな「ヌン」(英語に当てはめればN)の文字で始まっています。1節から、8節ずつ、順にアルファベットの文字を各節の冒頭に入れて詩を詠っているわけです。これは単に技巧的である、というだけで片付けられないもので、それほどに神への賛美と祈りの言葉が豊かであるからこのような詩が書けた、といえます。さらに、この詩は、各節のほぼすべてに、御言葉、裁き、律法、命令、定め、掟、戒め、仰せ、という八つの言葉が織り込まれているのです。
 この時代のことを考えてみれば、今日の私たちのように、片手で持てるような書物になった一冊の聖書を一人一人が手元に持っていたわけではありません。旧約聖書の書物の中では、割と遅い時代のものではないかと推測されていますが、いずれにしても聖書は巻物であって、それを預言者や祭司が朗読するわけです。時に預言者たちは、神から直接いただいた御言葉を、「主はこう言われる」と言って民衆に語ることもありました。そしてそれを聞いた民は神の御言葉として受け取り、信じたのです。そして、この詩がそうであるように、神の御言葉を聞いて信じ、信仰によって祈りや讃美をささげた人々の記した詩が残されて、民の祈りの言葉、讃美の言葉になって祈られ、歌われてきたのでした。そしてその祈りと讃美の言葉もまた、聖書として残され、読まれ、神の御言葉として受け継がれてきました。今の私たちにとっては、この詩編の言葉そのものも、神の御言葉なのです。この作者にとっては、先ほど言ったように巻物に書かれている律法や歴史などの旧約聖書に残されている書物や、預言者が語った神の御言葉を指して言っているわけですが、私たちにとってはその範囲がさらに広がって、この詩編自体も神の御言葉なのだ、ということです。
 神の御言葉とは、狭い意味では直接神が語られた御言葉そのものです。しかし聖書全体もまた神の御言葉と言われます。そこには人の言葉も、悪人の言葉も、サタン(悪魔)の言葉すらも含まれています。しかしそれら全体を指して「神の御言葉」と呼びます。つまり、そのような一切のものを含む聖書、という一つの全体を通して、神はその御心を私たちに教え、伝えようとしておられるということです。

2.わが足のともし火
この神の御言葉は「わたしの道の光」である、と作者は言います。この「わたしの道の光」と訳されているのは、「わたしの足のともし火」と訳されることが多い所です。足、あるいは一歩という意味もあります。単に自分の歩いてゆく道というよりも、一足一足、一歩一歩という風に考えると、私たちの日々の歩みに重ねて考えやすいかもしれません。神の御言葉は、私たちが主を信じて歩んでゆくならどのようになってゆくかということを大きな視点から示しているのは確かです。最終的には栄光の神の国に入れていただき、永遠の命を受けて、復活の新しい身体を与えられて神を仰ぎ見ることが出来る、という素晴らしいことが約束されています。しかし、この世の生活の中で、自分の人生がいろいろな節目節目でどうなってゆくかを、聖書は一人一人に示しているわけではありません。
ですから、我が足のともし火、という観点から言うと、私たちの人生という道のりの全体を見通せるようにしてくれるというよりも、日々の生活の一歩一歩を照らして導いてくれるものだ、と言えるでしょう。ずっと先まで照らしてくれて、自分の人生の先行きがすべてわかってしまうようなものとは違います。最終的な結果は栄光の神の国、という素晴らしいものが約束されていますが、そこに至るまでのこの世での生活では、いろいろなことが起こってきます。その一つ一つのことを私たちは一日一日味わってゆきます。そこに神の御言葉=聖書という道しるべがあります。その道しるべに頼って進めば間違いがないのです。神が語っておられるのですから、決して間違うことがありません。そういうともし火、私たちを常に神のもとへ、神と共に歩みへと導いてくれるのが神の御言葉です。

3.御言葉は命を得させる
 神の御言葉は、私たちに命を得させるものです。この詩の作者は、「主よ、み言葉のとおり 命を得させてください」と歌いました。神の御言葉に従っているなら命が得られる、という「私たちが従う」面よりも、まず神は御言葉によって私たちに命を得させてくださるという約束があります。この作者には、神の御言葉を信じ、神に信頼して生きることによって命を与えられる、という信仰がありました。神が信じる者を祝福してくださり、信じる者の神となってくださり、信じる者を神の民としてくださる、という約束があるからです(レビ記26章12節など)。
そして今や私たちにとっては、神の御子、唯一の救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われることがはっきりしています。主イエスご自身が、はっきりとそのことを語られました(ヨハネによる福音書6章39~40節等)。私たちはこの世で生きている間に、その御言葉を信じることによって確かに救いに与らせていただけます。栄光の神の国が約束されています。
しかし、その後もこの世での生活は続きます。信じた後も私たちはなお、この世で、罪の残っている人間として、主の前に、主と共に歩んでゆきます。その際、主なる神は、私たちがこの世に生きている間はなお神の子どもとして成長してゆくことを望んでおられます。それだからこそ、聖書が与えられており、神の立てられたキリストの教会があるのです。神の御言葉によって教え続けられることによって、キリストの体として、さらに相応しいものになるようにと、神が育ててくださいます。だから私たちは食事をするように神の御言葉に日々聞き続ける必要があります。そして、神の御言葉によって日々成長させていただき、日々新しくしていただくためには、ただ個人で聖書を読んで学ぶだけでは不十分です。なぜなら、聖霊は特に教会に対して働かれ、その中で私たちを教え導かれるからです。教会の営みの中で、神の真理が信じられ、保たれ、その時代ごとに世に対して語られるのです。私たちが礼拝で信仰告白をするのは、その意味でとても大事なことです。決して自分で勝手な聖書解釈をしているのではない。聖霊が歴史の中で教会に示してこられた信仰を、今の私たちも受け継ぎ、信じていることを告白しているのです。そして信仰告白(信条)によってさらに神の御言葉の全体を教えられます。多少難しい面も確かにあります。でもそれを悟らせてくださるのも聖霊の恵みです。
そういう歩みを続けてゆくこと自体が、神の御言葉を我が足のともし火として生きることにつながります。ですから、神の御言葉である聖書の説き明かしとしての礼拝説教に聞くこと、教理問答など歴史の中で生み出されてきたものを学び受け継ぐこと、聖書を自分で通読すること。これらを祈りと瞑想を伴って続けることが大切です。神の御言葉には真に私たちを救い、生かし、成長させる力があります。そこには神の、キリストによって私たちを救い、神の子どもにふさわしくしようとする御心が込められているのです。その御力に信頼し続けましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節