「洗礼を受ける恵み」 2017.10.22
使徒言行録 2章19~42節

 洗礼を受けているかいないか。このことは、私たち自身が自分の人生をどのように見るかということに深く関わっています。自分が神のものであることを神の前にはっきりと認めたということです。同時に、洗礼を受けるということは、社会に対しても、自分がクリスチャンであるということを表すものです。洗礼は受けたけれども、対社会的には、洗礼を受けていないものとして生きる、ということはできません。たとえば家族に洗礼を受けたことをなかなか言い出せなかった、という場合もあるかもしれませんが、そういう葛藤や戦いがあるとしても、洗礼を受けている、ということはキリストの御名のもとに自分を置いている、ということの証しなのです。

1.洗礼とは何か、その土台となること。
 そもそも洗礼とは何でしょうか。救い主としてこの世に来られた神の御子イエス・キリストが、十字架の死の後に復活され、天に昇られる前に弟子たちにお命じになったことです。そのとき、主イエスは言われました。父と子と聖霊の御名によって主イエスを信じた者に洗礼を授けなさい、と(マタイにいる福音書28章19節)。洗礼そのものは、ユダヤ教でも行われていました。ユダヤ人ではない人が改宗してユダヤ教徒になるときに施された儀式の一つです。水に浸すことによって、罪の汚れを洗い流すことを表しています。実際旧約聖書では、宗教的に汚れた状態にある人がその汚れを取り除くために水で洗うということが命じられていました(レビ記14章9節、民数記19章12節等)。衛生的に水で洗い清めるように、宗教的な汚れについても水で洗う、ということがなされていたわけです。
また、キリスト教の洗礼に先立って、イエスの前に登場して人々に罪の悔い改めを命じた洗礼者ヨハネも洗礼を授けておりました。神の前に罪を悔い改めた者に、罪の赦しのしるしとして授けられました。しかしこのヨハネの洗礼は、ヨハネの後に来る救い主イエス・キリストの到来に備えるためのものでした。主イエスはご自身の内に罪がないにも拘わらず、罪人である私たちすべての人間の側に立つお方としてヨハネから洗礼を受けられました。
 今日、キリスト教会では、信者でなかった人がイエス・キリストを自分の救い主と信じて信仰の道に入る時に、信仰を告白して洗礼を受けます。洗礼式を経て、クリスチャンとなり、地上の教会の一員となります。それを見える形で現わしております。
この洗礼は、先ほどの使徒言行録2章38節では、「イエス・キリストの名によって洗礼を受け」とありました。洗礼は父と子と聖霊の御名によって授けられます。それは先ほど見た、マタイによる福音書28章19節のとおりです。ですから、ペトロがここで言っているのは、それに反するということではなくて、イエス・キリストを神の御子、救い主と信じてその御名を呼び、そのもとで洗礼を受ける、という意味のことを言っているものです。
洗礼は、それを受けたらその瞬間にその人の中にあるすべての罪がきれいさっぱり洗い清められる、というものではありません。儀式そのものに力があるわけではありません。あくまでも罪の贖いをしてくださったイエス・キリストによって、イエスを信じる者の罪が赦されるのです。ペトロが書いています。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」(Ⅱペトロ3章21節)。神の御前に、イエスを信じて信仰によって生きてゆく、という意思表示でもあり、神に正しい良心を求め続ける歩みを始めるしるしでもあります。洗礼を受けたその日から、その人は主のものであることが公に明らかにされ、教会の一員として自分も、周りの教会員たちも、そして教会外の人にも、イエス・キリストに連なるキリスト者、クリスチャンであることが証しされるのです。
 洗礼という儀式自体の執行が人を救うのではありませんが、洗礼はイエス・キリストによって罪が赦されていることを表わすしるしとして守り行うべきものです。今の聖書箇所の直前に、「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」とありました(同前半)。洗礼が救うと言っているようですが、やはりキリストの復活があってこそであり、イエスを罪の贖い主として信じる信仰によって罪が赦されるのであって、洗礼というしるしの中に、イエスによる罪の贖いと、それを信じる信仰とが前提とされています。先ほど朗読した箇所で使徒ペトロが語っていたことはそれを述べているものです(2章19節~36節)。
 主イエスは教会に洗礼と聖餐式という二つのことを命じられました。これらを礼典と言います。私たちは信仰さえあれば儀式としての洗礼などいらぬかと言えばそうではありません。やはり洗礼という主がお命じになった儀式によって、神のものとされ、キリストによる罪の赦しの恵みにあずかって生きる新しい命の道に入れていただいていることが示されているからです。
 洗礼式では、「父と、子と、聖霊の御名によって」洗礼を授けられますが、これは、「父と子と聖霊の御名に入れる洗礼」という表現です。神の御名の内に入れられる。つまり神のものとされるのです。父なる神が御子イエス・キリストを救い主としてこの世にお遣わしになり、十字架の死と復活により救いの御業を成し遂げ、イエスが天に昇られた後に降られた聖霊が、私たちに罪の自覚と悔い改めと信仰を与え、この地上に教会を立ててくださっています。そのような父と子と聖霊、という三位一体の神の一つの御名の内に入れられることを洗礼は印づけており、私たちが神のものであるという事実を保証しています。

2.洗礼を受ける恵みと祝福
 私たちにとって、洗礼とは、自分が神のもとへと導き出され、そしてイエス・キリストの救いにあずかって神のものとされている、ということの確かなしるしです。そしてある人が教会に導かれ、信仰に導かれて洗礼を受けるに至ったとしたら、それは神の招きがその人に与えられていたからです。人は神の聖霊によって神のもとへと導かれて初めて信仰に至ります(2章39節)。神のもとへと招かれたなら、私たちはまず自分と神との関係を知ります。神によって命を与えられ生かされている私たちですが、生まれながらに神に背いている私たちの「罪」を知ります。私たち人間の内に、そしてこの世の中に罪があります。それは神に対する罪です。ペトロは40節で「邪悪なこの時代から救われなさい」と言いました。私たちは救われる必要があるのです。「邪悪なこの時代」とはペトロがいた紀元1世紀の頃の話に限るものではありません。今も、その時代です。神に背いている罪のことを言いましたが、本当に罪の邪悪さを私たちは軽く見てはいけないのです。初めは心の中にある小さな欲望や願望などが、何かのきっかけで大きく膨らみ、とんでもないことをしてしまう。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブの手紙1章15節)。しかし、人の行った悪事を見て、なんて悪いことをするのだろうか、と思うのは、人の中にまだ良心が残っているからです。それゆえ良心の呵責というものがあります。それが非常に希薄だと悪を悪とも思わない、という状態に陥ってしまうことすらあるわけで、世の中に起こっている邪悪な犯罪などはその典型です。
 そしてそのような、この邪悪な時代を形作っているのは人間です。すべての人の中に罪があるのですから、私たち一人一人もその構成員であるには違いありません。しかし、邪悪な時代の中に、神は光を差しこんでくださいました。それが神の御子救い主イエス・キリストという光です。この光を信じれば、邪悪な時代から救われる、と神は言われるのです。邪悪な時代の構成員である私たちですが、それでも神の招きによってイエスのもとへ導かれ、救い出されるなら、先ず私たち一人一人の罪が赦されるのです。イエスを信じて洗礼を受けなさい、と神は命じておられます。洗礼というものがあること、イエス・キリストによる救いという道が与えられていること、これは本当に神の大いなる恵みです。恵みとは神の一方的なご好意によるものです。それは非常に尊いものです。洗礼を受けることによって、この邪悪な時代の中で、「この人はイエス・キリストの十字架の救いの恵みに与って神のものとされた人である」という印章が押されているのです。人の目には見えないけれども、神には見えています。
 幼児洗礼についても、今ひとたびその重要性を顧みましょう。自分の子が契約の子として洗礼を受けているということは大きな恵みなのです。親の信仰で幼児洗礼を授けたけれども、当人は自立した人格を持っているから、信仰の道を歩むかどうかは本人次第、その自由ということではありません。主の約束が子供らにも及んでいる(2章39節)。その祝福の中に入れていただいている、というのは、それだけで幸いなことなのです。しかし、その幸いなことを御言葉によってはっきりと自覚し、悟ることは重要であり、それはさらに幸いなことです。ペトロによってイエス・キリストの救いの真理を知らされた人々は大いに心を打たれたとありました(2章37節)。それまでは何とも思わなかった神の前での罪を悟らされ、心を打たれてどうしたらよいのですか、と問いました。するとペトロは洗礼を受けなさいと答えたのでした。今日も同様に私たちは、イエス・キリストにより、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けなさい、と命じられています。この招きに応えられることもまた、神の恵みです。
 そして、洗礼を受けてクリスチャンとなった人々は、①使徒の教え、②相互の交わり、③パンを裂くこと、④祈ることに熱心な者となりました。これは、少し言い換えれば、①聖書の教えに従い、②聖徒の交わりの内に生き助け合い、③礼拝で聖餐式にあずかり、④一人で、また共に祈ることに熱心である、ということです。洗礼は救い主イエス・キリストを信じて生きる道の第一歩であり、神を呼び求めて聖霊の導きに従おうとする歩みの出発点です。ただ心に信じていればよい、というのではなく、確かなしるしとして水の洗いが行われることによって、その人が主なる神のものである、ということが公にされるのです。私はイエス・キリストを信じて洗礼を受けている、というとき、私たちは、自分は神のものであると自己紹介しているのです。

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