「主を軽んじたダビデの罪」 2017.10.15
サムエル記下 12章1~23節

 今日は、このサムエル記下より、イスラエルの王ダビデの犯した罪について私たちは教えられています。今日のお話を通して、私たちは改めて自分の罪には鈍く、人の罪には敏感である、ということを思い知らされます。そして、主なる神が私たち人間の罪をどのようにお考えになっておられるかを教えられるのです。

1.預言者ナタンのたとえ話
 この時代、主なる神はイスラエルに王をお立てになって、国を治めさせておられました。王制はまだ始まったばかりです。ダビデはイスラエルの中で最も重要な人物の一人です。王は、神が特別のお立てになる存在で、神は王をその位に就けられるとき、油を注いで王に任命する、ということを預言者に命じておられました。その預言者自身も神から油を注がれて任命されます。どちらも、神が特別にお立てになる職務なのです。イスラエルはいわば信仰による共同体ですから、預言者は特別な位置にいます。王は大きな権力を持っていますが、預言者は王と対等であり、王とは別の権威を主なる神からいただいていました。時には王でさえも神の託宣を直接受けてきた預言者に従わねばなりません。
 ここで、預言者ナタンはダビデ王の前に来て、あるたとえ話をしました。四節までのお話です。裕福な男が、貧しい男から羊を取り上げて自分の客に振舞ったという話です。自分には多くの羊や牛がいるのに、貧しい男が養っているたった一匹の羊を奪い取ったのでした。これを聞いたダビデ王は激怒します。そんなことをした男は無慈悲極まりない、死罪に値する、と。しかしナタンは、その男とはダビデ自身である、と告げます。ダビデはまさか自分のことだとは思ってもいなかったことがわかります。全く自分とは関係ない他人事としてこの話を聞いていたのです。そして話に出て来る男がいかにひどく無慈悲であるかとあげつらい、そして断罪したのです。こういったことは、私たちの周りで、あるいは私たち自身がしばしばしてしまう事かもしれません。人のなした悪事には非常に敏感であるけれども、逆に自分のしたことには鈍感で、気が付かないのです。私たちは今日、毎日のようにニュースでいろいろな事件や事故のことを見聞きしています。殺人事件や強盗傷害などということでなくても、例えば不注意で事故を起こしてしまった人のことを聞くと、なんで運転中にそんなことをしてしまったのか、と言います。しかし自分も似たようなことをしてしまっているかもしれません。やはり私たちは自分には甘く、人には厳しいのでしょう。ダビデがまさにそれでした。ダビデはナタンの話を聞いて、これはもしかして自分のことを言っているのではないか、ということに思い至りません。それほどに彼はこの時鈍感になっていたのでした。罪の呵責をそれなりに感じていたら、はたと気づいたかもしれませんが、この時のダビデはそれができませんでした。まるで他人事としてこの裕福な男の罪をあげつらったのです。これはダビデに限らず、人間の罪の実態です。罪を犯していることそれ自体に気が付かない。鈍くなっているのです。私たちは、これは決してダビデだけのものではなく、他人事にしてしまってはいけないことをまず心に刻みましょう。

2.ダビデの罪
 ダビデが何をしたのかについては、11章に書かれています。ある日の夕暮れ時、ダビデは午睡から起きて王宮の屋上を散歩していると屋上から一人の美しい女が水浴びをしているのを見つけます。彼の軍隊は敵を攻撃するために出ておりましたがダビデはエルサレムの王宮に残っていたのでした。ここにダビデの気の緩みが既に現れています。彼は使いの者をやって彼女を召し入れ、床を共にしてしまいました。彼女の名はバト・シェバと言います。王の命令ですからバト・シェバは断れなかったのでしょう。そして彼女は子を宿してしまいます。それを聞いたダビデは彼女の夫であるウリヤを戦場から呼び戻し、家に帰らせようとします。一晩妻と共に過ごさせ、生まれてくる子の父親はウリヤだと見せかけるためです。しかしウリヤは他の兵士たちの手前、自分だけ家に帰ろうとはしません。それで、ダビデは戦場に戻ったウリヤを戦いの激しい所へ追いやるように指示し、彼を見捨てて戦死させるようにしたのです。子どもがウリヤの子だということにならないならばいっそウリヤを殺してしまえばバト・シェバを自分のものにできると考えたわけです。ダビデの思惑通り、ウリヤは戦死します。しかしダビデのしたことは主の御心に適わなかった、と11章の最後に記されています。誰が見てもひどい悪事です。ダビデのしたことは、神がイスラエルの民に与えられた十戒に照らしてみた時に、明らかに三つの戒めを破っています。第十戒の「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」という戒め。次に、第七戒の「姦淫してはならない」。そして第六戒の「殺してはならない」。ダビデは王ですから、民に対しては絶対的な権力を持っています。先ほど朗読した12章7節以下でナタンが語っていることは、十戒にいちいち照らしてはいませんが、ダビデの罪を鋭く突いています。
 まず、ダビデは、神によって自分が王とされていること、神から多くの恵みをいただいていることを自覚しなければなりません。しかしこの時のダビデはそれを、よく自覚していなかったのでした。ダビデのしたことは神の御言葉と御心に背くものでした。そして彼の罪は、ただウリヤの妻との間に姦淫の罪を犯しただけではなく、策略をもってウリヤを殺したことです。それは神からいただいた王としての権力を用いてのものでした。また彼は自分のしたことが発覚しないように隠蔽工作も施しています。罪に罪を重ねてしまい、自分自身ではもはや歯止めが利かなくなっていました。王として過ごしてくる中で、ダビデにやはり気の緩みが生じ、神の前での畏れと謙遜さを失っていたのです。ここで預言者ナタンは、ダビデの罪を指摘するにあたり、特に姦淫の罪を強調してはおりません。たとえ話にもそれは示されています。それを軽く見ているわけではありませんが、ダビデがウリヤから妻を奪い、そしてウリヤを剣にかけて殺したことに重きを置いています。ダビデの罪は、単に異性との倫理的な問題に留まるのではなく、神から油を注がれて特別に王とされていながら、その権力を恣にして悪事を働き、それを隠そうとまでしたことでした。悪事に悪事を重ねたのです。
 ここで一つのことに触れておきます。神はダビデに多くのものを与えられたのですが、ダビデに妻たちを与えられたのでした(8節)。本来、男と女とは一人ずつで夫婦となるべきものです。しかしこの旧約聖書の時代の人々、特に王たちは何人かの妻を持つことがありました。それ自体をここでは問題にしていません。だからといって、現代においても人が何人かの妻をもつことを聖書が容認しているということではありません。時代の中で、限定的にこのようなことが黙認されているような状況が時に見られますが、夫と妻の関係については、私たちは主イエスの教え、新約聖書の教えに明確にされているので、それに従います。一人の夫と一人の妻。これが聖書の示す夫婦の形です。

3.死んだ子どもに対するダビデの態度に学ぶ
 さて、ダビデ王はナタンに自分の罪を指摘されて初めて、「わたしは主に罪を犯した」と告白しました。ここまで言われてやっと自覚したダビデはただ一言こう語ったのでした。ナタンは、二つの報いがダビデに与えられると告げました。一つはダビデの肉親からダビデに悪を働くものを起こすこと(サムエル記下15章、16章22節)。そしてダビデとバト・シェバとの間に生まれてくる子は必ず死んでしまうということ。子どもに罪はないではないか、というのが今日的な考えかもしれません。しかし主は、人に命を与え、生かしますが、また命を取られるお方です。そういう神としてダビデに報いを与えるのです。
 ダビデは、生まれた子が弱っていくのを見て、引きこもり、食事も取らずに地面に横たわっていたのでした。そのようにして主の前にへりくだり必死に祈っていたのでしょう。断食して泣き、主が憐れんで子どもを生かしてくださるかもしれないと思ったのでした。しかし子が死んだことが分かるとダビデの態度は一変します。子どもが死んだことを聞くと彼は起き上がり、身を整えてまず主を礼拝し、そして食事を取りました。しかしダビデは何事もなかったように食事を始めたわけではありません。まず主を礼拝したのです。自分の罪の故に報いとして死ななければならなかった子どものことを悲しみつつも、すべてをなされた主を礼拝して、そのなさることをへりくだって受け入れることを態度で現わしたのでした。私たちも通常は自分の愛する身内の死を見届けなければならない時がきます。しかし、主が人の命を取られるとき、私たちはもはや何もすることができず、ただへりくだって主のなさることを受け入れるのみなのです。
 ダビデは、死んだ子を呼び戻すことはできない、と言いました。非常にあっさりと割り切っているかのように見えますが、それは、命の主である神を信じ、人の命が神の御手の中にあることを信じる信仰があるからこその態度です。ダビデは、自分もいずれあの子のところに行く、と言いました。これは単純にひとたび死んだ者はこの世には戻ってこない、という事実を強調しているものです。この子は神によって生まれたばかりで命を取られたのだから、天国へ行ったのだろうとか、そういうことはここでは詮索する必要はありません。私たちにも、一所懸命に祈ったけれども、やはり医師の宣告通りに愛する者がこの世を去る、ということを味わうことがあることでしょう。そのような時、私たちは平然としていることはできないでしょう。しかしダビデの姿を思い起こし、主が命を与え、また命を取られる、という厳粛な真実を心に留めつつ、私たちもへりくだって神を礼拝します。一切を神の御手にゆだねるのです。
 今日は、ダビデの犯した罪の重さの故に、彼の上に大変厳しい報いが与えられることを見ました。ダビデが主を軽んじたからではありますが、罪を告白したダビデはその罪を取り除かれます。しかし彼は死を免れたけれども報いとして子供は死にました。更に今後その報いを受けることにもなります。ダビデは自分の行いを悔やみ、苦い思いを抱き続けたでしょうが、それでも主の憐れみが残されていました。私たちもまた、罪と過ちを犯す弱さを持つ身です。しかしそのような私たちに、罪を取り除く救い主がおられます。罪を告白してイエス・キリストにより頼む者に、神は赦しを与え、なお主の民として生かしてくださることを信じましょう。人間の罪とそれがもたらす悲惨から、目をそらさないことも必要です。そして人間の罪を取り除くために、主イエス・キリストが十字架で死んでくださり、私たちの罪を償い、赦してくださることを知るのです。私たち罪人のために、救い主であり、弁護者でもあるイエス・キリストがいてくださいます。この方にどこまでもより頼みましょう。

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