「神の子イエスに聞く」2017.10.1
 マルコによる福音書 9章2~13節

 私たち人間が生きているこの世界には、長い歴史があり、その中で様々な人の語る言葉が語り告げられてきました。人生や世界についていろいろな思索を重ねてきた偉大な、優れた人々がいました。もちろん人間として相対的にです。そういう中には宗教の開祖と呼ばれる人々もいます。そのような中に、私たちが今、この聖書を通してその御言葉を聞いているイエス・キリストの御言葉もあります。イエス・キリストの御言葉も、そのような歴史の中にある多くの人々の声の一つに過ぎないのでしょうか。もちろんそうではありません。私たちは、このイエスというお方の語られたこと、なさったことに聞くようにと、天の神から命じられていることを、今日、改めて知るべきなのです。

1.イエスの変容
 ここで起こった出来事をまず見てゆきましょう。この出来事は、イエスの地上での御生涯の中でも、非常に特筆されるべきことです。主イエスのなさったこの世における様々な事の内、重要な出来事がいくつかあります。まずは神の御子であるお方が人としてお生まれになったこと。そして、多くの奇跡を行なったり、神の御言葉を語ったりなさいましたが、ついにはユダヤ人の当局に捕らえられて、ローマ総督ピラトのもとで死刑判決を受け、そして十字架で処刑されましたけれども、三日目に復活されたのでした。十字架の死と復活。この二つのことは特にイエスのなさったことの内、最も大いなる出来事です。その最大の出来事の前に、弟子たちに対してイエスがその姿を変えられて、栄光に輝く姿をお見せになった、ここでの出来事があります。通常、山上の変貌、とか山上の変容などと呼ばれている出来事です。短い記述しかなされていませんが、イエスというお方が実に神の御子として、神からこの世に遣わされたお方であることを明らかに示すものなのです。イエスの地上の御生涯の中でも、非常に突出した出来事です。
 ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れてイエスは高い山に登られました。するとイエスの姿が変わり、服が真っ白に輝き始めました。マタイは、顔は太陽のように輝いた、と書いています(マタイ17章2節)。その服について、マルコは、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどに白くなった」と書いています(3節)。それによって、この出来事が地上の出来事の次元を超えたものである、ということを示しているのです。
 そしてここで重要なことは、エリヤがモーセと共に現れてイエスと語り合っていた、ということでした。マルコはエリヤの方に重心をおいているようです。11節以下でエリヤのことについて語られるからでしょう。しかし、モーセもエリヤも、どちらも旧約聖書の中では非常に重要な人物です。モーセは主なる神から十戒を中心とする律法を授けられて、民に律法を教えました。主はやがてモーセのような預言者が現れる、その預言者には聞き従わなければならない、と言われました(申命記18章15節)。モーセは、ホレブ山(シナイ山)において十戒を授かり(出エジプト記20章)、エリヤもまたホレブ山で、主の臨在を示される機会を与えられました(列王記上19章)。山で主の顕現にあずかったということでも共通しています。
エリヤは、偶像礼拝に傾いて行ったアハブ王に対してその罪を力強く指摘した預言者です。そして旧約聖書の最後の預言書であるマラキ書に、主が大いなる恐るべき日を来たらせる前に、エリヤを遣わすとあります(マラキ3章23節)。11節で、弟子たちが主イエスに「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」問うたのはこのことです。主イエスは「確かに、先ずエリヤが来て、すべてを元どおりにする」と言われました。それは、マラキ書3章1節に記されている使者のことで、同じく23節でも言われているからです。
ここで、すべてを元どおりにする、と言われているのは、本来あるべき状態にする、ということで、主が来られるときに人々の心を父なる神の方へ向けさせるためにエリヤが送られるというのです。そしてこのエリヤこそ、洗礼者ヨハネでした。マラキ書にあるように、そのエリヤ(すなわち洗礼者ヨハネ)が来て人々の心を神の方へ向けさせると言われているけれども、それは、人の子イエスが来られて苦しみを受け、辱めを受けることによって成し遂げられる、ということを覚えねばならないのです。人の子(イエス)が苦しみを受けることについては、イザヤ書53章の預言に最も明らかに示されています。
13節で「エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなように彼をあしらった」というのは、洗礼者ヨハネがヘロデ王によって殺されたことを示しています。ヘロデ王は、自分の行いの悪さをヨハネから指摘されたので、彼を捕えて牢に入れ、ついには自分の都合で処刑してしまいました(マルコ6章27節)。

  2.復活するまでは語ってはならない
 このように、旧約聖書の最重要人物に数えられるモーセとエリヤがイエスのもとに現れて語り合っていたのですが、何を語り合っていたのか、についてルカは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」と伝えています(ルカ9章31節)。イエスがエルサレムで遂げようとしている最期とは十字架の死のことです。それは、モーセとエリヤが代表する旧約聖書が預言していることでした。神の子キリストが来られて十字架に死なれるということは、たまたま成り行きでこの時代に起こった事なのではなくて、すべてが主なる神によって計画されていたことであり、その実現についてモーセとエリヤは話していたのです。
イエスは、この山で見たことを、ご自身が死者の中から復活されるまでは誰にも話してはいけない、とお命じになりました。すると弟子たちは、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合いました。やはり弟子たちは主イエスが苦しみを受けて殺され、そして三日の後に復活する、ということをまともには信じていなかったからです。いくら目の前でイエス様がご自身の十字架の死と復活をお語りになっても、それを受け入れる態勢ができていなければ、理解できない。弟子たちがまさにそういう状態でした。

3.神の子イエスに聞く
 しかし、そんな弟子たちも、イエスの復活の後に、その十字架の死と復活の意味を悟りました。神の御子イエスがこの世にお生まれになって、神の御言葉を語り、多くの人々の病をいやし、悪霊から解放してやり、神の国の確かな希望を与えて下さったにもかかわらず、ユダヤ人の指導者たちに捕らえられてローマ総督ピラトのもとに引き出され、そしてついに死刑判決を受けて十字架で殺されたこと。しかし三日目に復活されたこと。これらはすべて神による人々の救いのご計画が実現するためでした。そして弟子たちは、イエスの復活の後、この山上の変貌の出来事の中で、雲の中から神が言われた御言葉、「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われたことの意味を十分に悟ったのです。すべてはイエスのなさったことと、イエスの語られたことの中に神の御心と真理とが示されていることを。
私たちも今日、まったく同じように神の御子イエス・キリストに聞きなさい、と命じられています。イエス・キリストに聞く、という時、今も言いましたように、単にイエス様がお話になった御言葉そのものだけに聞くということではありません。福音書にあるイエス様の御言葉だけを聞けばよい、他は重要ではない、というのは間違っています。イエスに聞くとは、イエスのなさったこと、そしてイエスについて証ししている聖書全体(旧約・新約)に聞くことです。もちろん、聖書は、イエスについて証言しているのですから、イエスに注目し、イエスに焦点を当てるのは事実です。そこを外してはいけません。まず私たちが聞くべきは、私たちが罪から救われるためには、イエス・キリストという救い主により頼むしかない、という真理です。そして、神を愛し、隣人を愛し、世に福音を宣べ伝えること。信仰、祈り、讃美、礼拝について。主イエスを信じる主の民の共同体としての教会を立てること等です。さらには一人一人が持っている重荷、課題、などについて聞かねばなりません。聞かねばならない、というと厳しい義務のような響きがしますが、私たちは神の御子イエスの御言葉に聞くことで、最も幸いな道に至れるのです。そのことを忘れるわけにはいきません。
この世には多くの人の声が満ち溢れています。今私たちの国では、急遽、国政選挙が予定されました。自分たちに任せてくれればこの国をよりよくすることができる、と(どこまで確信しているかは別として)政治家は力強く語ります。しかしそれが空しく時間と共に消え果てていくことも私たちはしばしば見ております。それは、やはり人間には、この世界と人間とに関わる事柄について、確かなことを言う権威も資格も力もないからです。そういうことを弁えたうえで、私たちは聖書の教えに聞いていくのです。神の御子イエス・キリストの御声に聞くのです。神はイエスについて「これはわたしの愛する子」であると言われました。であるからには、神の子イエスの御言葉となさることには、神の愛が込められているのです。神の御子に聞く者に本当の幸いをもたらすために、神の御子をこの世に送られたのですから。
イエスの山上の変貌を目撃したペトロは、後に次のように書きました(Ⅱペトロ1章16~21節)。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなた方のがた心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(19節)。このことは私たちが地上に生かされている限りは続くものです。その中で私たちは、神の御子イエス・キリストが私たちを日々新たにし、神の御言葉に聞く者として常に新しくしてくださることを信じて歩むのです。私たちは、この世ではなお、欠け多く、弱く、罪深い者ですが、12節で言われているエリヤ以上に、私たちを神の御前に清め、神の前に歩む者とする御力を持つ神の御子イエス・キリストが私たちに御言葉を聞かせ、その恵みの内に強めてくださるのです。

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