「メシアの偉大な御業を見よ」 2017.9.3
 マルコによる福音書 8章22~30節

 神の御子、救い主イエス・キリストは、御自身のことを弟子たちや人々に対して、いろいろな御業と御言葉によって示しておられました。しかし、なかなか、このイエスというお方を正しく理解できなかったのが弟子たちと人々の現実でした。今日の朗読箇所においても、イエスはご自身のことを証しする御業をなさいましたが、同時にそれをまだ十分には理解できていない弟子たちの姿も見られるのです。このようなことを通して、今日の私たちもまた、主イエスのことをどれだけ正しく理解しているのか、悟っているのか、と問われています。そして、今日の朗読箇所の最後の方で主イエスが言われた、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)という御言葉は、私たちの人生観・世界観を決定づけるものであることを知らされるのです。

1.ベトサイダでの盲人のいやし
 主イエスは、ベトサイダで盲人を癒されました。この出来事は、マルコだけが伝えているお話です。そして、この話は、21節までに書かれていた弟子たちの無理解と、27節以下のペトロの信仰告白と言われている話との間に挟まれていますが、その二つの出来事とも深くつながっている話なのです。
 このベトサイダでの盲人の癒しは、イエスがなさった癒しの御業の中で、他のとは違う特徴があります。イエスが二段階にわたって癒しをなさったことです。まず盲人の目に唾をつけ両手をその人の上に置いて「何か見えるか」と尋ねられます。すると盲人は少し見えるようになって、歩いている人が木のように見える状態にまで視力が回復します。するとイエスが今度は両手をその人の目に当てられると良く見えるようになって、何でもはっきり見えるようになったのでした。イエスのなさった一つ一つのことの意味をいちいち何かの意味に当てはめることはする必要がないと思いますが、ここでの出来事は、ある面を示しているように見えます。最初にイエスが盲人の目に触れた時には、まだはっきりとは見えていませんでした。人が、木のように見えて、歩いているのはわかる、という程度でした。このことは、イエスご自身の姿を見ていて、イエスのなさることを見てはいるのだけれども、まだはっきりとは見えていない。弟子たちはまさにそのような状態にあった、と言えるのではないでしょうか。あまり深読みをすることは避けるべきですが、この間に挟まれた盲人の癒しの御業は、まだはっきりとはイエスのことが見えていない弟子たちの姿に重ね合わされる面が強いと思うのです。
 そして、主イエスはこの盲人を村の外に連れ出して癒し、そのあとでこの村に入ってはいけないと言って家に帰されました。これはどういうことなのかといろいろに議論されているところですが、おそらく、村に入って歩き回らないようにしなさい、ということではないかと思われます。いずれにしても、イエスは見ることのできない人の目を開けることが出来る。この一事ははっきりしています。そしてこのことは、7章31節以下に書かれていた、耳が聞こえず舌の回らない人を癒されたことと同じように、旧約聖書イザヤ書の35章5節で預言されていたことの成就だったのです。「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く」と言われていた預言です。そしてこの預言は、神がこの世に送られるメシア=キリストをお送りくださることの予告でした。イエスはこの人の目を見えるようにすることで、さらにこの預言がご自分にあてはまることを証明されたのです。

2.イエスは何者か
さて、イエスと弟子たちはフィリポ・カイサリア地方の方々の村へ行きました。この地方は、パレスチナの北の端の方、ガリラヤ湖から40キロメートルほどの所にあります。この地域はローマ皇帝アウグストゥス(ルカ2章1節)がヘロデ大王(マタイ2章1節)に与えたものでした。後にヘロデ大王の子のフィリポスが領主となり、その時の皇帝カイサル・ティベリウスの名にちなんでフィリポ・カイサリアという名がつけられていました。この地方は、ギリシャの神々の中の一つ、パンの誕生の地でした。また、山腹の上の方にはフィリポスがローマ皇帝のために建てた立派な神殿がありました。ローマ皇帝は神の子であると信じられていたのです。つまり、古代ギリシャの神々が礼拝されており、ローマ皇帝の神性が認められているような地域です。そういう場所でイエスは人々がご自身のことが何と言われているかを聞かれました。ここでいう人々とは、今までイエスのなさることを見聞きしてきた人々、特にユダヤの人々を指して言っていることです。人々はイエスのことを洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、預言者の一人だとか言っていました。エリヤは紀元前9世紀の、イスラエルにとってはモーセと並んで重要な預言者です。そのエリヤとか、他の預言者のだれか、などと人々はてんでにイエスについて言っておりました。
そのような中で、イエスは弟子たちに、イエスご自身を何者だと思うのかを問われました。ペトロの答えは、イエスはメシア(=キリスト、すなわち油注がれた者。つまり神によって民の救いのために特別に立てられた者)である、というものでした。この答えは、今私たちから見れば、まったくの正解です。しかしこの答えを返したペトロをはじめとする弟子たちは、実はイエスがメシア=キリストであるということを真の意味では悟っていませんでした。そのことは、31節以下で主イエスが受難と復活の予告をされた時に、ペトロがそれをいさめ始めた、ということからわかります。だからこそ、主イエスはペトロや他の弟子たちに、御自分のことを誰にも話さないようにと戒められたのです(30節)。この「戒められた」という言葉はとても強い表現です。ペトロがイエスのことを「あなたは、メシアです」と信仰告白した言葉それ自体は正しいのですが、ペトロや他の弟子たちのメシア理解が不十分、不正確だったので、話すことを戒められたのです。

3.イエスはメシア=キリストである ペトロの信仰告白の言葉自体は正しかったのですが、そのメシア理解にはかけがあったので、主イエスは弟子たちがイエスについて話すことを戒められました。それで、今日の私たちもまた、救い主イエス・キリストについて、本当に正しく理解しているかどうかを顧みる必要があります。その理解とは、二つの面があります。一つはイエスとは何者か、ということ。二つ目はイエスがなさったことです。何者か、という点は人となられた神の御子であり、全世界に対する唯一の救い主であられること。永遠からおられる真の神であられることです。父と子と聖霊と共に、三位一体の一人の神であられるお方です。イエスの内には真の神としての御性質と、真の人としての御性質があるのです。それだからこそ、神と人との間に立って、私たちの罪の贖いを完全に成し遂げることができました(ハイデルベルク信仰問答問15~18)。人となられた神の御子だからこそ、より頼んで近づいてくる者を、一人残らず救うことがお出来になります(ヘブライ人への手紙7章25節)。
二つ目のこと、イエスのなさった御業の中心にあるのは、十字架と復活です。私たちの罪の償いのために死んでくださる、ということは未信者の人にもある面で分かりやすいことかもしれません。犠牲的精神、というのは特に日本人は好むかもしれません。しかし、せっかく犠牲的精神を発揮してご自分を犠牲として献げて死んだのに、復活した、ということが分かりにくいのではないでしょうか。しかし、復活こそ、私たちの罪からの救いの大きな鍵となる出来事です。復活がなかったなら、イエスがどれだけ大きな業をなし、どれだけ病人を癒し、目の見えない人の目を見えるようにしてあげたとしても、私たちは罪から救われることがありません(Ⅰコリント15章17節)。
  しかし言い方を替えてみましょう。もしイエスが神の御子でなく、多くの人の罪を担って十字架で死なれ、そして復活されるほどのお方でないのだったら、他の人の病を癒し、目の見えない人の目を開くことなどできなかった、とも言えます。ですから、私たちはイエスというお方が何者であられるかということと、そのなさったことを切り離して考えることはできません。真の神の御子だからこそ、復活することができました。人の病を癒し、目を開き、耳を開くことができる、ということを通して、ご自身が真の神、唯一の救い主であられることを証しされました。そして真の救い主だからこそ、私たちの所にも来てくださって、信仰へと導き、イエスはメシア=キリストである、という信仰告白へと導いてくださったのです。
自分の信仰告白の時から今日までのことを思い出してみてください。まだの方は、御自分が信仰告白していることを想像してみてください。信仰告白ということも、実はそれ自体が神の恵みです。最初イエスに触れていただいたときは、まだはっきりとは見えていなかったかもしれない。しかし、イエスがさらに私たちと共にいてくださり、何度もその御手を触れて、その十字架と復活を確かなものとして示してきてくださったはずです。そうして今日まで導いてくださいました。私たちの内に主イエスが「救い」という奇跡と言ってよい御業をなしてくださったからこそそれは実現するのです。その主イエスの大いなる御業をしっかりとみて、受け入れ、感謝し、主の御名をあがめましょう。

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