「主の再臨を待ち望む」 2017.8.27
フィリピの信徒への手紙 3章12~4章1節

 私たちのキリスト教信仰において、信者でない方々がなかなかすぐには受け入れられない教えがいくつかあるのではないかと思います。その最たるものは、主イエス・キリストの復活と言えるでしょう。実際、使徒パウロがギリシャのアテネで宣教したときも、彼はイエスと復活について福音を告げ知らせていました。
しかし彼の宣教の言葉を聞いた人々の内、信仰に入った人も何人かはいたのですが、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」のでした(使徒言行録17章32節)。イエス・キリストの復活そのものと、さらにイエスを信じる者にも復活の体が与えられる、と聖書は教えているのですから、復活の教えは二重に人々が信じにくい面を持っていると言えるのではないでしょうか。そして、もう一つのなかなか受け入れられにくい教えは、キリストの再臨ではないかと思います。復活されたキリストが天におられ、そして世の終わりの時にもう一度この世に来られる。これは、現代文明の中に生きる人々にとっては、大きなつまずきとなることでしょう。もしかすると、復活よりも信じにくいことかもしれません。というのもキリストの再臨というのは、全世界の秩序にも大きく関わってくるからです。私たちが目に見ているこの世界の秩序が全く覆される、という面があるからです。このような再臨、という教えを今日私たちは聞こうとしています。

1.再臨の約束
再臨とは何か、またなぜこれが問題となるのでしょうか。再臨は主イエス・キリストが自ら約束されたことですから、主を信じる人は心からそれを待ち望みます。主イエスは言われました。世の終わりの前兆として、キリストの名を名乗る者が大勢現れ、自分がキリストだと言って多くの人を惑わします。そして世界中が敵対し、方々に地震や飢饉が起こります(マルコ13章3節以下)。
しかし、そのような世の終わりの時が来る前に、福音があらゆる民に宣べ伝えられるとも言われました(同13章10節)。そして、主御自身の再臨についてはっきりと約束されました。太陽、月、星が光を放たなくなり、その他天体が揺り動かされる、という世の終わりの時に、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(同13章26~27節)と言われたのです。人の子とは主イエスご自身のことです。
天地を創造されたのは主なる神。罪人であるすべての人間のために、救い主をこの世に送られたのも主なる神。その救い主が十字架で罪の償いのために死んでくださったのも主なる神の御心。そして、そのキリストを死者の中から復活させられたのも主なる神。そして世を裁くためにキリストを再びこの世に現してくださる(再臨)のも天地の主なる神です。そして裁くだけではなくて神の御計画を実現し、神の国を完成させられます。ですから、キリストの再臨はそのような一連の神の御計画の中に組み込まれた重要なことであって、天地創造からずっとつながっている神の御業の結果、起こってくる出来事なのです。ですから、再臨なくして、神の救いのご計画は完成に至らない、と言えるのです。

2.再臨の意味
キリストは復活された後、天に昇られて姿が見えなくなりました(使徒言行録1章9節)。キリストが復活の体をもって天におられる、ということを明らかにするために、弟子たちの前で視覚的に天に昇って行かれたのでした。しかし主キリストは、弟子たちの目の前から天に挙げられるとき言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)。
復活の体をもって天に挙げられ、姿は見えなくなりましたが、実は信じる者たちと共におられる。これは決して矛盾しているわけではありません。キリストは昇天によって、どこか遠い所へ移ってしまわれたのではなく、共におられます。天と呼ばれる所が、この地上とは次元の違う所であるがゆえに、あえてキリストは昇天によってそれを明らかにされました。しかし、「天」は遠い宇宙の果てにあるわけではありません。姿が見えなくなって、この地上とは異なる次元の「天」におられるのです。そういう状態にあるキリストが、再び私たちの地上に姿を現して、御自分の民を「天」の住まいに迎え入れてくださる。それが再臨の時です。

3.キリストの再臨を待ち望む
 そのように、「再臨」の意味をまずよく知ることが大事です。フィリピの信徒への手紙3章20節は、「わたしたちの本国は天にあります」と明言しています。「天」とは、私たちが初めてやっとたどり着くところ、というよりも、もともとそこに居場所が定められていて、本来居るべき場所、帰るべき家、ホームグラウンドなのです。
 この手紙を書いた使徒パウロは、先ほど朗読した箇所で、フィリピの信徒たちを励まし、信仰にしっかりと立ち、キリストによって与えられる天の賞を目指してひたすら走りなさい、と勧めています。なぜなら、キリストの十字架に敵対して歩む者が多いからだ、と(18節)。そのような人々はこの世のことしか考えていない。この世の生活がすべてだと考えている。そのために全てをかけているとも言えます。この世で全てが完結するということです。しかし、この世界はそうではありません。神は目に見えるものだけではなく、目に見えないものもすべてお造りになりました。目には見えないけれども確かにおられる神の御言葉に、私たちは耳を傾けます。目に見えるものはやがて移り変わり、衰え、朽ちてゆきます。私たちの心と体、そしてこの世にあるあらゆるものがそれを示しています。パウロは人間の体を「わたしたちの卑しい体」と言いました(21節)。「みじめな体」という訳もあります。弱く、やがては衰え、ついには死んで朽ちてゆく、という面を表しているといえましょう。人の体は、美しい、という面も確かにありますが、それはほんの一時期のことです。永久にその美しさを保てる人はいません。主イエス・キリストは、神の御子であられ、もともと神の栄光の内におられたにも拘わらず、私たちと同じ体を持たれました。罪はないけれども、私たちと同じ肉体を持たれたのです。それは、罪深く、弱く、卑しい私たちの体を贖い、清め、御自身の栄光ある体と同じ形に変えてくださるためです。ですから、キリストの再臨を待ち望むというのは、ただ空を見上げて、天の雲に乗ってくると言われたキリストを待つというだけではなく、その時にキリストと同じ形に変えていただける、ということを待ち望むことなのです。
しかし主キリストの再臨はいつのことになるのか、誰にもわかりません。これまで約二千年の間、どれだけ多くの主の民が主の再臨を待ち望んでこの世で信仰によって生活し、そして体の死を迎えて世を去っていったことでしょう。私たちもそうなる可能性が高いでしょうか。しかし、自分がこの世に生きている間に主の再臨が実現しなくても、私たちは主にゆだねて安心して世を去ることができます。ただ待ち望む態勢が変わるだけです。主の再臨の前でも、主イエス・キリストによる罪の赦しを信じて死んだ者は、確かに罪の赦しにあずかっています。だから、たとえ体は死んで骨と灰になり、墓に入ったとしても、神はそのような体を復活のキリストと同じ栄光の体に変えてくださいます。キリストを信じるとは、そこまで信じることです。イエスの教えを信じて生きる者は、主イエス・キリストがついには栄光の体を与えて下さることを信じて主の再臨を待ち望みます。主の復活が力強くそれを証ししています。主を待ち望みましょう。

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