「群衆を養うイエス」 2017.8.6
マルコによる福音書 8章1節~10節
救い主イエス・キリストは、神の御子として多くの奇跡を行なわれました。今日朗読した八章には、四千人の人々にパンと魚を十分に食べさせた出来事が記されておりました。似たようなお話が6章30節以下にありました。似ているお話ですが、確かに別の時に起こった出来事です。この出来事を通して、今日私たちに教えられていることを、今日もよく聞き取りたいと願っています。
1.弟子たちの態度
主イエスの周りには、その話を聞きたい、病人を癒してもらいたい、という人々が押し寄せてきており、イエスの行かれる所へついてゆく、ということがしばしばありました。群衆がイエスのもとを離れなかったのは、それだけイエス、というお方に何かを求める、という気持ちが強かったのだと思います。6章34節で言われていましたように、群衆は飼い主のいない羊のような有様でした。日々の仕事に励まなければならない人々は、おそらくイエスの後についてくる、ということはなかなかできなかったのではないかと思います。弱さや病を抱えている人々、仕事はあるけれども、イエスのお話を聞きたい、さらに何をなさるかを見てみたい、という人もいたことでしょう。そのような群衆は、もう三日もイエスと共にいたのでした。
このような状況を見たイエスは、「群衆がかわいそうだ」と言われました。6章に記されていた記事では、弟子たちが人々のことを心配して、イエスに人々の解散を促します。しかし今回は、三日も経っているのに、弟子たちからは何にもイエスに問いかけることをしていません。弟子たちの心境は、ここには記されていませんのではっきりとはわかりません。もしかすると、前に五千人もの人々を養われたように、今回も主イエスは何とかされるのではないか、と期待していたのでしょうか。ここでの弟子たちは、「いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言いました。既に五千人以上の人々にパンと魚を分け与えてくださっていた主イエスがここでも同じようにしてくださると思わなかったのでしょうか。6章52節で言われているように、弟子たちはパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた、とありましたから、弟子たちはそれほどイエスの御業を期待していなかったのでしょうか。いずれにしてもここでの弟子たちは、6章に比べるとなんとなく冷めているような印象を受けます。ここでの話は、6章とは違って、異邦人たちに対するものではないか、と言われています。それについて、パン屑の残りを集めた時の籠が、6章とは違う言葉が使われており、それはおもに異邦人たちが使う籠であったからという説があります。そう考えると、弟子たちは異邦人に対している時には、あまり群衆のことを気にかけていなかったのではないか、ということもうかがわれるのです。ユダヤ人でクリスチャンになった人たちでさえ、なかなか、ユダヤ人と同じように異邦人も救われる、ということを受け止められなかった、ということが使徒言行録からわかります。それを考えますと、この頃の弟子たちが三日間も群衆のことについてイエスに何も促さなかったのは致し方のないことだったのかもしれません。
しかし主イエスは、異邦人であろうと、ユダヤ人であろうとご自身の御力によって恵みを与えようとしておられることを私たちはここから見てとることができます。シリア・フェニキアの女性の娘から悪霊を追い出された時には、「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われました。しかしこの女性の「小犬も子供のパン屑はいただきます」という言葉を聞いて、直ちに悪霊をその娘から追い出してくださったのでした(7章24節以下)。そのお話を考えますと、主イエスはもともとユダヤ人から始めて、異邦人にも同じように救いをもたらそうとしておられるという面を、この福音書は伝えていると言えるのです。
二.感謝してパンを与えるイエス
主イエスはこうして異邦人にもパンを提供して、御自身がユダヤ人だけではなく異邦人のためにも来られたのだということを示されました。ここでイエスのなさったことを改めてみますと、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えられました。そして魚を取って賛美の祈りを唱えられました。賛美の祈りとは、祝福、という言葉です。主イエスはこのことによって、食物を感謝をもって受けること、そして食物自体、祝福されるべきものであることを示されました。私たちは、日常いただいている食物は、神への感謝をもっていただくべきものであることと、食物自体が神に祝福されたものであること、すなわち神がお造りになって私たちに与えてくださる良きものである、ということを改めて覚えておくべきであります。
聖書によって、天地創造の神を知り、神がこの世界にあるあらゆるものを保ち、様々なものを食物として備えてくださっていることを知っているキリスト者は、ただ漠然と食べ物について感謝するのではなくて、はっきりと、生ける神が私たちに食物をくださっていることを感謝するのです。
三.群衆を解散させるイエス
こうして四千人の人々にパンと魚を十分にお与えになった主イエスは、人々を解散させられました。これは、考えてみれば当たり前のことかもしれませんが、実はある重要なことを教えています。イエスがお選びになった弟子たちは常にイエスと行動を共にしていました。寝食を共にしていた、ということです。しかし、他の人々、群衆はそうではありません。何千人という人々は、いくらイエスの素晴らしい奇跡を目の当たりにして、イエスの神としての御力を見て、この方のなさることをいつもそばで見てみたい、と思ってもそれはできませんでした。なぜなら、みなそれぞれの生活というものがあるからです。ずっと行動を共にすることは、イエスご自身が望んでおられることでもありませんでした。主イエスは見える形で肉体をとって、いつまでも地上で生活を続けるということをされませんでした。人々の前に公に御姿を現されてから、およそたったの三年間で十字架につけられて殺されました。三日目に復活されましたが、五十日後には天に昇られました。そのような地上でのイエスの御生涯を鑑みると、たとえそれが数年間であっても、大勢の群衆と生活を共にして常に食料を提供する、ということをなさらなかったのです。つまり主イエスは、わずかのパンと魚を増やして何千人もの人々に食べさせることはお出来になりますが、それをずっと続けられるわけではないということです。人々が働かなくてもイエスがおられれば、毎日空腹を満たしていただける、ということではなかったわけです。
それで、主イエスは人々を解散させられました。この世の生活においては、イエスの神の御力によって、何もしなくても食事ができるような状態にすることは神の御心ではありません。それぞれの生活の中で働き、食料を得る事、そしてそれを感謝をもって受けること。これが主なる神の御心です。
しかし主イエスがこのようにパンと魚を増やして人々を養われたことによって、イエスが神の御子として、ユダヤ人も異邦人も区別なく今もなお命のパンをお与えくださっているお方であることを示しています。この福音書が書かれた頃には、既に異邦人の中に福音が伝えられて、あちらこちらに教会が出来ていました。そして人々は救いの福音を聞き、命の言葉を聞いて、永遠の命をいただき、栄光の神の国を信じて日々の生活をしていました。イエスは永遠の命を与えてくださる救い主であることを、人々は教会で聞いていたのです。そういうお方であることを証しする出来事として、この8章の出来事は示されています。
今、主イエスが目の前でパンと魚を増やすという奇跡を見ることはなくても、私たちは日々主イエスによって永遠の命の内に生かされています。私たちが礼拝の度に、聖餐式のたびに、また食事のたびに主イエスの御名によって感謝の祈りをささげるとき、また常に主イエスもそこに共におられて、私たちの祈りを受け、祝福してくださっているのです。
1.弟子たちの態度
主イエスの周りには、その話を聞きたい、病人を癒してもらいたい、という人々が押し寄せてきており、イエスの行かれる所へついてゆく、ということがしばしばありました。群衆がイエスのもとを離れなかったのは、それだけイエス、というお方に何かを求める、という気持ちが強かったのだと思います。6章34節で言われていましたように、群衆は飼い主のいない羊のような有様でした。日々の仕事に励まなければならない人々は、おそらくイエスの後についてくる、ということはなかなかできなかったのではないかと思います。弱さや病を抱えている人々、仕事はあるけれども、イエスのお話を聞きたい、さらに何をなさるかを見てみたい、という人もいたことでしょう。そのような群衆は、もう三日もイエスと共にいたのでした。
このような状況を見たイエスは、「群衆がかわいそうだ」と言われました。6章に記されていた記事では、弟子たちが人々のことを心配して、イエスに人々の解散を促します。しかし今回は、三日も経っているのに、弟子たちからは何にもイエスに問いかけることをしていません。弟子たちの心境は、ここには記されていませんのではっきりとはわかりません。もしかすると、前に五千人もの人々を養われたように、今回も主イエスは何とかされるのではないか、と期待していたのでしょうか。ここでの弟子たちは、「いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言いました。既に五千人以上の人々にパンと魚を分け与えてくださっていた主イエスがここでも同じようにしてくださると思わなかったのでしょうか。6章52節で言われているように、弟子たちはパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた、とありましたから、弟子たちはそれほどイエスの御業を期待していなかったのでしょうか。いずれにしてもここでの弟子たちは、6章に比べるとなんとなく冷めているような印象を受けます。ここでの話は、6章とは違って、異邦人たちに対するものではないか、と言われています。それについて、パン屑の残りを集めた時の籠が、6章とは違う言葉が使われており、それはおもに異邦人たちが使う籠であったからという説があります。そう考えると、弟子たちは異邦人に対している時には、あまり群衆のことを気にかけていなかったのではないか、ということもうかがわれるのです。ユダヤ人でクリスチャンになった人たちでさえ、なかなか、ユダヤ人と同じように異邦人も救われる、ということを受け止められなかった、ということが使徒言行録からわかります。それを考えますと、この頃の弟子たちが三日間も群衆のことについてイエスに何も促さなかったのは致し方のないことだったのかもしれません。
しかし主イエスは、異邦人であろうと、ユダヤ人であろうとご自身の御力によって恵みを与えようとしておられることを私たちはここから見てとることができます。シリア・フェニキアの女性の娘から悪霊を追い出された時には、「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われました。しかしこの女性の「小犬も子供のパン屑はいただきます」という言葉を聞いて、直ちに悪霊をその娘から追い出してくださったのでした(7章24節以下)。そのお話を考えますと、主イエスはもともとユダヤ人から始めて、異邦人にも同じように救いをもたらそうとしておられるという面を、この福音書は伝えていると言えるのです。
二.感謝してパンを与えるイエス
主イエスはこうして異邦人にもパンを提供して、御自身がユダヤ人だけではなく異邦人のためにも来られたのだということを示されました。ここでイエスのなさったことを改めてみますと、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えられました。そして魚を取って賛美の祈りを唱えられました。賛美の祈りとは、祝福、という言葉です。主イエスはこのことによって、食物を感謝をもって受けること、そして食物自体、祝福されるべきものであることを示されました。私たちは、日常いただいている食物は、神への感謝をもっていただくべきものであることと、食物自体が神に祝福されたものであること、すなわち神がお造りになって私たちに与えてくださる良きものである、ということを改めて覚えておくべきであります。
聖書によって、天地創造の神を知り、神がこの世界にあるあらゆるものを保ち、様々なものを食物として備えてくださっていることを知っているキリスト者は、ただ漠然と食べ物について感謝するのではなくて、はっきりと、生ける神が私たちに食物をくださっていることを感謝するのです。
三.群衆を解散させるイエス
こうして四千人の人々にパンと魚を十分にお与えになった主イエスは、人々を解散させられました。これは、考えてみれば当たり前のことかもしれませんが、実はある重要なことを教えています。イエスがお選びになった弟子たちは常にイエスと行動を共にしていました。寝食を共にしていた、ということです。しかし、他の人々、群衆はそうではありません。何千人という人々は、いくらイエスの素晴らしい奇跡を目の当たりにして、イエスの神としての御力を見て、この方のなさることをいつもそばで見てみたい、と思ってもそれはできませんでした。なぜなら、みなそれぞれの生活というものがあるからです。ずっと行動を共にすることは、イエスご自身が望んでおられることでもありませんでした。主イエスは見える形で肉体をとって、いつまでも地上で生活を続けるということをされませんでした。人々の前に公に御姿を現されてから、およそたったの三年間で十字架につけられて殺されました。三日目に復活されましたが、五十日後には天に昇られました。そのような地上でのイエスの御生涯を鑑みると、たとえそれが数年間であっても、大勢の群衆と生活を共にして常に食料を提供する、ということをなさらなかったのです。つまり主イエスは、わずかのパンと魚を増やして何千人もの人々に食べさせることはお出来になりますが、それをずっと続けられるわけではないということです。人々が働かなくてもイエスがおられれば、毎日空腹を満たしていただける、ということではなかったわけです。
それで、主イエスは人々を解散させられました。この世の生活においては、イエスの神の御力によって、何もしなくても食事ができるような状態にすることは神の御心ではありません。それぞれの生活の中で働き、食料を得る事、そしてそれを感謝をもって受けること。これが主なる神の御心です。
しかし主イエスがこのようにパンと魚を増やして人々を養われたことによって、イエスが神の御子として、ユダヤ人も異邦人も区別なく今もなお命のパンをお与えくださっているお方であることを示しています。この福音書が書かれた頃には、既に異邦人の中に福音が伝えられて、あちらこちらに教会が出来ていました。そして人々は救いの福音を聞き、命の言葉を聞いて、永遠の命をいただき、栄光の神の国を信じて日々の生活をしていました。イエスは永遠の命を与えてくださる救い主であることを、人々は教会で聞いていたのです。そういうお方であることを証しする出来事として、この8章の出来事は示されています。
今、主イエスが目の前でパンと魚を増やすという奇跡を見ることはなくても、私たちは日々主イエスによって永遠の命の内に生かされています。私たちが礼拝の度に、聖餐式のたびに、また食事のたびに主イエスの御名によって感謝の祈りをささげるとき、また常に主イエスもそこに共におられて、私たちの祈りを受け、祝福してくださっているのです。
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