「かたくなな心を砕く力」 2017.8.13
マルコによる福音書 8章11~21節
救い主イエス・キリストとは、いったいどのようなお方なのだろうか。この問いは、主イエスが人々の前に姿を現してから今日に至るまで、常に重要な問題です。この理解を間違うと、わたしたちは主イエス・キリストというお方を正しく知ることができません。今日の朗読箇所から、そしてマルコによる福音書が語っている流れから、この点を私たちは教えられています。
1.天からのしるし
四千人もの人々に、パンと魚を十分に分け与えられた主イエスのもとに、ファリサイ派の人々がやってきました。彼らはイエスを試そうとしました。何を試そうとしたのか。イエスが本当にメシア=キリストであるかどうか、ということを試そうとしたのでした。主イエスは、この時代の人々がしるしを求めることを嘆かれました。ファリサイ派の人々が天からのしるしを求めたのは、主イエスのなさることを謙虚に認めようとはしなかったからです。彼らは、イエスの語られることに素直に聞こうとせず、却って、イエスが天から来たというのなら、そのしるし、つまり証拠を見せろと言うのです。しかも、病人を直すとか、パンを増やす、とかいうのではなく、天からのしるしです。通常の自然現象でも、たとえば虹はノアの時の大洪水の後、神が契約のしるしとして定められたものでした(創世記 9章13節)。また、雷は主がサムエルの呼び求める声を聞かれたことのしるしでした(サムエル上 12章18節)。それ以上の特異なしるし、つまり通常の自然現象以上のしるしを見せろ、ということです。
主イエスは今の時代の人々にはそのようなしるしは与えられないと断言されました。この記事の並行箇所であるマタイによる福音書12章39節によると、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と主イエスは言われました。ヨナのしるしとは、主イエスが三日間墓の中にいて、その後復活されたことです。預言者ヨナが嵐の中、船から海に落とされた時、主が備えてくださった大きな魚の中に三日間おり、そして陸に吐き出された、という出来事を指しています。ヨナが三日間魚の腹の中にいたように、主イエスも墓の中に三日間おられる、ということです。それだけがこの時代に与えられるしるしである、ということがマタイによる福音書からわかります。しかし復活のほかに、天からの目覚ましいしるしなどはない、と主は言われるのです。 そもそも、しるしを求める、というのは神への信頼が欠けている時代にこそ起こるものです。とてつもない自然現象を起こすくらいでなければ信じない、という態度です。私のために死んでみせてくれなければあなたの愛は信じない、と恋人に言う態度と同じです。神への本当の信仰と信頼とがある時には、何かの奇跡を見ないと信じない、奇跡を見えてくれれば信じる、というような態度は出てきません。しるしを見せろ、というのは神の御前にへりくだるよりも、自分たちを神よりも上に置いて本当に神の力があるかどうか判定しようではないか、という態度です。神様よりも自分を偉くしようとする態度です。そのような高ぶった態度でいる限り、しるしなどは与えられない、と主イエスは言われるのです。
2.パン種に気をつけよ
ファリサイ派の人々にそれだけお答えになると、主イエスは舟に乗って向こう岸へ行かれました。そこで舟の中での弟子たちと主イエスとのやり取りが始まります。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と主イエスは言われます。ファリサイ派の人々のパン種とは何でしょうか。ファリサイ派の人々は、直前の11節以下にあったように、天からのしるしを求める、という言葉に現れているように、イエスの御言葉と御業を見ても、素直に受け入れようとせず、悔い改めようとせず、イエスを信じようとしない態度を示しています。さらに、イエスが神の御力によって悪霊を追い出しているのを見れば、あれは悪霊のかしらの力によって悪霊を追い出しているのだ、とも言っていました(マルコ 3章22節)。つまりイエスの御業や言葉を誤解し、歪曲してしまう、という態度です。また、主イエスは、ファリサイ派の人々のパン種とは、彼らの偽善である、と言われました(ルカによる福音書 12章1節)。パン種とは、しばしば聖書では悪いことのたとえに用いられます。発酵し始めるとどんどん大きくなってゆきます。その様を、悪が増え広がっていくことに例えています。
ヘロデのパン種については、ファリサイ派の人々がヘロデ派の人々と一緒になって、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた、という記事がありました(マルコ 3章6節)。また、ヘロデは洗礼者ヨハネを殺してしまいました(マルコ 6章27節)。自分の地位を脅かそうとするものは力づくで排除する。罪を犯してもなんとも思わない。そういう罪に対する無自覚な感覚を持っています。
ファリサイ派の人々のパン種も、ヘロデのパン種も、形を変えていろいろに存在しています。そのようなものに良く気を付けなければならない。イエスと弟子たちの周りにはそのようなパン種があちらこちらにあったと言えます。今日の私たちにとってはどうでしょうか。イエスの御言葉に対する誤解、歪曲。社会生活の中での偽善、罪への無自覚、反対者などを力づくで排除する権力者。このようなものは、私たちを容易に罪へと誘います。神の言葉にへりくだって聞かない。大きな奇跡のようなものを見れば信じてもいいと考える。聞きたくない者は初めから無視し、抹殺してしまう。このようなパン種に気をつけなさい、と主イエスは言われるのです。
3.頑なになった心を打ち砕く主の御力
しかし、このようなイエスの警告を弟子たちはちゃんと受け止めることができませんでした。単純にパンを持っていないことしか考えられなかったのが弟子たちです。弟子たちは舟の中に一つのパンしかなかったので、パンそのものについて主が言っておられると思ったのでした。このような弟子たちに対して、この後、主イエスの問いかける言葉が続きます。弟子たちは、主イエスが二度にわたってパンと魚を増やして何千人もの人々に十分食べさせられたことを見ていたにも関わらず、食料としてのパンのことばかり気にしていました。ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種についての警告の言葉を与えられても、弟子たちはその重大さに気づきませんでした。食糧は得たとしても、先ほど列挙したような、教えに対する誤解、歪曲、偽善、罪の無自覚等は常にそこにあります。それに対して、そのようなものとは違い、真に私たちを生かし、救うことのできる主イエスの御力を見ていた弟子たちは、その力により頼むことをし続ける必要があります。ここでは十二の籠、七つの籠、という数は特に関係はないといえます。
主イエスは、パンと魚を増やす、という奇跡によって、私たちを養うことのできるお方だと示してくださいました。今日、目の前にパンを増やすイエスがおられなくても、我らの日用の糧は与えられています。そのことに信頼し、空腹を満たす食料のことよりも、悪いパン種に注意しなければいけない。それを教えておられます。
そして、今私たちに示されている主イエスの御力は、パンと魚を何百倍にも増やして食べさせてくださる力だけではなく、主イエスの御力を正しく見極められないでいる、頑なになった私たち人間の心を砕く御力として示されているのです。主イエスの御力は、物質であるパンと魚、食料を私たちに十分与えるという以上に、かたくなになって主の御言葉を受け入れることが出来なくなっている人間の心を柔らかくして、新しくさせ、神の御言葉によって生きる者へと変える御力として与えられています。ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種よりもはるかに力がある、主イエス・キリストの御言葉、という種を私たちの内に成長させていただくように祈りましょう。罪の力に打ち勝つ主イエスの御力と恵みは、この後、8章31節以下で語られる、十字架と復活の出来事によって明らかにされます。そこにおいて主の御力は最高に現わされていることを私たちは知るのです。その御力は私たちのかたくなな心を砕き、新しくしてくださいます。そして主の御言葉を受け入れ、より頼む者へと造り変えてくださるのです。
1.天からのしるし
四千人もの人々に、パンと魚を十分に分け与えられた主イエスのもとに、ファリサイ派の人々がやってきました。彼らはイエスを試そうとしました。何を試そうとしたのか。イエスが本当にメシア=キリストであるかどうか、ということを試そうとしたのでした。主イエスは、この時代の人々がしるしを求めることを嘆かれました。ファリサイ派の人々が天からのしるしを求めたのは、主イエスのなさることを謙虚に認めようとはしなかったからです。彼らは、イエスの語られることに素直に聞こうとせず、却って、イエスが天から来たというのなら、そのしるし、つまり証拠を見せろと言うのです。しかも、病人を直すとか、パンを増やす、とかいうのではなく、天からのしるしです。通常の自然現象でも、たとえば虹はノアの時の大洪水の後、神が契約のしるしとして定められたものでした(創世記 9章13節)。また、雷は主がサムエルの呼び求める声を聞かれたことのしるしでした(サムエル上 12章18節)。それ以上の特異なしるし、つまり通常の自然現象以上のしるしを見せろ、ということです。
主イエスは今の時代の人々にはそのようなしるしは与えられないと断言されました。この記事の並行箇所であるマタイによる福音書12章39節によると、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と主イエスは言われました。ヨナのしるしとは、主イエスが三日間墓の中にいて、その後復活されたことです。預言者ヨナが嵐の中、船から海に落とされた時、主が備えてくださった大きな魚の中に三日間おり、そして陸に吐き出された、という出来事を指しています。ヨナが三日間魚の腹の中にいたように、主イエスも墓の中に三日間おられる、ということです。それだけがこの時代に与えられるしるしである、ということがマタイによる福音書からわかります。しかし復活のほかに、天からの目覚ましいしるしなどはない、と主は言われるのです。 そもそも、しるしを求める、というのは神への信頼が欠けている時代にこそ起こるものです。とてつもない自然現象を起こすくらいでなければ信じない、という態度です。私のために死んでみせてくれなければあなたの愛は信じない、と恋人に言う態度と同じです。神への本当の信仰と信頼とがある時には、何かの奇跡を見ないと信じない、奇跡を見えてくれれば信じる、というような態度は出てきません。しるしを見せろ、というのは神の御前にへりくだるよりも、自分たちを神よりも上に置いて本当に神の力があるかどうか判定しようではないか、という態度です。神様よりも自分を偉くしようとする態度です。そのような高ぶった態度でいる限り、しるしなどは与えられない、と主イエスは言われるのです。
2.パン種に気をつけよ
ファリサイ派の人々にそれだけお答えになると、主イエスは舟に乗って向こう岸へ行かれました。そこで舟の中での弟子たちと主イエスとのやり取りが始まります。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と主イエスは言われます。ファリサイ派の人々のパン種とは何でしょうか。ファリサイ派の人々は、直前の11節以下にあったように、天からのしるしを求める、という言葉に現れているように、イエスの御言葉と御業を見ても、素直に受け入れようとせず、悔い改めようとせず、イエスを信じようとしない態度を示しています。さらに、イエスが神の御力によって悪霊を追い出しているのを見れば、あれは悪霊のかしらの力によって悪霊を追い出しているのだ、とも言っていました(マルコ 3章22節)。つまりイエスの御業や言葉を誤解し、歪曲してしまう、という態度です。また、主イエスは、ファリサイ派の人々のパン種とは、彼らの偽善である、と言われました(ルカによる福音書 12章1節)。パン種とは、しばしば聖書では悪いことのたとえに用いられます。発酵し始めるとどんどん大きくなってゆきます。その様を、悪が増え広がっていくことに例えています。
ヘロデのパン種については、ファリサイ派の人々がヘロデ派の人々と一緒になって、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた、という記事がありました(マルコ 3章6節)。また、ヘロデは洗礼者ヨハネを殺してしまいました(マルコ 6章27節)。自分の地位を脅かそうとするものは力づくで排除する。罪を犯してもなんとも思わない。そういう罪に対する無自覚な感覚を持っています。
ファリサイ派の人々のパン種も、ヘロデのパン種も、形を変えていろいろに存在しています。そのようなものに良く気を付けなければならない。イエスと弟子たちの周りにはそのようなパン種があちらこちらにあったと言えます。今日の私たちにとってはどうでしょうか。イエスの御言葉に対する誤解、歪曲。社会生活の中での偽善、罪への無自覚、反対者などを力づくで排除する権力者。このようなものは、私たちを容易に罪へと誘います。神の言葉にへりくだって聞かない。大きな奇跡のようなものを見れば信じてもいいと考える。聞きたくない者は初めから無視し、抹殺してしまう。このようなパン種に気をつけなさい、と主イエスは言われるのです。
3.頑なになった心を打ち砕く主の御力
しかし、このようなイエスの警告を弟子たちはちゃんと受け止めることができませんでした。単純にパンを持っていないことしか考えられなかったのが弟子たちです。弟子たちは舟の中に一つのパンしかなかったので、パンそのものについて主が言っておられると思ったのでした。このような弟子たちに対して、この後、主イエスの問いかける言葉が続きます。弟子たちは、主イエスが二度にわたってパンと魚を増やして何千人もの人々に十分食べさせられたことを見ていたにも関わらず、食料としてのパンのことばかり気にしていました。ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種についての警告の言葉を与えられても、弟子たちはその重大さに気づきませんでした。食糧は得たとしても、先ほど列挙したような、教えに対する誤解、歪曲、偽善、罪の無自覚等は常にそこにあります。それに対して、そのようなものとは違い、真に私たちを生かし、救うことのできる主イエスの御力を見ていた弟子たちは、その力により頼むことをし続ける必要があります。ここでは十二の籠、七つの籠、という数は特に関係はないといえます。
主イエスは、パンと魚を増やす、という奇跡によって、私たちを養うことのできるお方だと示してくださいました。今日、目の前にパンを増やすイエスがおられなくても、我らの日用の糧は与えられています。そのことに信頼し、空腹を満たす食料のことよりも、悪いパン種に注意しなければいけない。それを教えておられます。
そして、今私たちに示されている主イエスの御力は、パンと魚を何百倍にも増やして食べさせてくださる力だけではなく、主イエスの御力を正しく見極められないでいる、頑なになった私たち人間の心を砕く御力として示されているのです。主イエスの御力は、物質であるパンと魚、食料を私たちに十分与えるという以上に、かたくなになって主の御言葉を受け入れることが出来なくなっている人間の心を柔らかくして、新しくさせ、神の御言葉によって生きる者へと変える御力として与えられています。ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種よりもはるかに力がある、主イエス・キリストの御言葉、という種を私たちの内に成長させていただくように祈りましょう。罪の力に打ち勝つ主イエスの御力と恵みは、この後、8章31節以下で語られる、十字架と復活の出来事によって明らかにされます。そこにおいて主の御力は最高に現わされていることを私たちは知るのです。その御力は私たちのかたくなな心を砕き、新しくしてくださいます。そして主の御言葉を受け入れ、より頼む者へと造り変えてくださるのです。
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