「聞こえるようにする恵み」 2017.7.30
マルコによる福音書 7章31節~37節

 ティルスの地方でギリシア人の女性の娘から悪霊を追い出された主イエスは、そこから北の方のシドンを経てガリラヤ湖の方へ戻ってこられました。そこへ耳が聞こえず、話すのが不自由な人が連れてこられました。この記事は、四福音書の中で、マルコによる福音書だけに記されているものです。この人の耳を開き、はっきりと話せるようにされた主イエスの御業は、私たちに対しても、違った形で現れていることを私たちは教えられます。私たちは、このような福音書の記事から、先ず何が起こったのかを正しく知ること、そしてこのお話は今日の私たちに何を教えているかを知ることが大事です。

1.イエスの御業と口止め
 主イエスはいろいろな病気の人に対して、通常は一人一人に手を触れることを通して癒しを与えられました(ルカによる福音書 4章40節)。時には、直接触れずに、離れた場所にいる人を癒されたこともありました(マタイによる福音書 8章13節)。今日の朗読箇所では、主イエスは、耳が聞こえず、口が不自由な人に対して、特に細かく触れるなどの動作を多くなさって癒しておられます。マルコによる福音書はこのように、割とイエスの動作などを詳しく知らせてくれている面があります。
 イエスは、天を仰いで深く息をつき、「エッファタ」つまり「開け」と言われました。「エッファタ」とは、イエスや弟子たちが日常話していたアラム語という言葉の発音をそのまま記したものです。耳が聞こえるようになるために開くこと、口も、自由に話せなかったけれども、自由に話せるように開かれること、そのどちらも示しているわけです。主イエスは神の御子としての力をもって、病気の人や、体の機能が不自由な人をこのように癒すことがお出来になりました。先ほども言ったように、その癒し方は、その時その時によって多様な仕方でした。やり方はいろいろでしたけれども、共通していることは、病気や不自由な面を持っている一人一人に対して、一人ずつ向き合って癒してくださったことです。この点をよくよく覚えておきたいものです。  そして主イエスはここでも、この出来事を話してはいけない、と人々に禁じます。それは、この時点では、イエスのことがただ驚きを伴う目覚ましい奇跡としてだけ伝わって一人歩きしてゆくことを望まれなかったのだと思われます。このように福音書に記されることを通して、やがては全世界にまで告げ知らされることになるのは、主イエスは当然ご存じです。しかし、この時点ではそのようにされたのでした。しかし、結局人々はそのイエスが禁じたことには従わずかえって言い広めました。

2.聞こえるように、話せるように
聞こえない人の耳を聞こえるようにする。口のきけない人を話せるようにする。確かにこのことは、大変なことです。人は音や声を耳という聴覚器官で受け取って、脳がそれを認識する。これは、本当に素晴らしい仕組みです。けがや病気により、その他生まれつき、その機能が失われている人たちが少なからずいます。そういう人たちが立ちどころに何不自由なく音や声を聞き取れるようにすることができる方法があるなら、それは凄いことです。先日、ある病気によって耳がほとんど聞こえない人が、内耳に、ある機器を埋め込むことによってそれまで聞けなかった人の声を聞き分けることが出来るようになった、という様子をテレビ番組で見ました。人間の感覚器官が働いていればこそ、そのような事も可能なわけですが、機能的に全く聴覚を失っていたらそれもかなわないことでしょう。
実に私たちの思いを超えた所で、ある人は耳が聞こえず、目が見えず、口が利けないという状態に置かれています。これについて、人を創造された主なる神は次のように言われました。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか」(出エジプト記 4章11節)。勘違いをしてはいけませんが、主なる神は、ただ聞こえなくし、見えなくするのではなくて、見えるようにし、聞こえるようにし、口を利けるようにされるお方です。それを忘れてはいけません。見えること、聞こえること、口が利けることは当たり前ではなくて、人に口や耳や目を造られた主なる神が、そのようにしてくださっているのです。主イエス・キリストは、そのようにして主なる神が人に与えられた機能が失われている人を、たちどころに回復する御力があります。これは、一人の人としてお生まれになったイエスが、神の御子であり、神としての御力をもっておられることの証しなのです。
そして、主イエスがこのように人の耳を聞こえるようにし、口を利けるようにし、目を開けることがお出来になることは、旧約聖書で予告されていたことが成就した出来事でした。「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ書 35章5~6節)。イエスは、ただ単に人々の病を癒し、聴覚や視覚を回復するためだけに来られたのではありません。それによって、御自身が、お生まれになるはるか昔からその到来を予告されていたメシア、キリストであられることを証しされるためにこの世に来られて、人々を癒されました。これがこの出来事の大事な点です。

3.神の御言葉を聞けるように
 耳が聞こえる。口が利ける。目が見える。これらのことは、神がそのような機能を私たちに与えて下さっているのだということを確認しました。それだけでも恵みであることを私たちはよく覚えておきたいものです。しかし、それ以上に、私たちが神の御言葉を聞けるということがいかに深い恵みによっているかということをここで覚えたいのであります。耳が聞こえるということはそれ自体、ありがたいことですし、重要なことです。しかし同時に、その耳で何を聞いているか、ということは、さらに大事なことです
私たちは今、新約聖書のマルコによる福音書から、イエス・キリストについて聞いています。教会は、この話を神から私たちに与えられた救い主についての喜ばしい知らせ=福音として聞いてきました。しかしそれは、神の聖霊が、これを神の御言葉、神からの私たちへの語りかけとして聞くようにと導き助けてくださっているからこそ、そのように聞けるということです。そうでなければ、私たちはこれを単なる昔話、あるいは昔の人の作り話、優れた人格者であったイエスという人を、奇跡を行なえるすごい人に祭り上げてしまった話、のように聞いてしまうのです。そして他の多くの人の話と同列においてしまう。それはイエスを単なる歴史上の一人の人物としてしか見ない見方です。しかしそうではなくイエスこそ、世に来るべき救い主キリストであります。
 私たちが聖書を読んだ時、この聖書という書物に対して抱くある種の感覚があります。これは単なる人間の産物ではないのではないか。この書物に聞いていれば、きっと人の生きるべき道が示されるのではないか、という感覚です。これは、聖書に親しんでゆくにつれて深くなってゆき、やがて神の御言葉に対する確信が生じてきます。これは神の聖霊のお働きによるものです。そして、イエス・キリストに対する信仰、信頼の心が与えられてきます。そしてイエス・キリストこそ救い主、私たちの主である、という確信へと導かれるのです。
 この世には多くの、人を教え、知恵を与え、知識を提供する言葉があります。長年の経験から人生の知恵を語る人もいます。世界と歴史、世の中の仕組みについて、非常に深い洞察を働かせて教えてくれる学者や知識人の言葉があります。それらは私たちがこの世で生きてゆく上でそれなりに必要な知識や教えを与えてくれることでしょう。それもまた神から来る一般的な恵みではあります。世の中にある学問や深い教養に根差した言葉もまた、神から来ているとは言えます。しかしそれだけでは私たちに対して、神ご自身とその前に生きる人間についての真理を明確には示していません。私たち人間という存在の意味と、神について明確に示しているのは神の御言葉である聖書であり、それを理解させてくださるのは神の恵みです。ですから私たちはこの聖書に聞きます。そしてその聖書が、唯一の救い主、神の御子として証ししているイエス・キリストに聞くのです。私たちがイエスの御言葉に耳を傾け、聞こうとしている、ということは、「エッファタ」と言って聞こえない人の耳を開いてくださったイエス・キリストの恵みです。主イエスは、耳を開くだけではなく、私たちの口をも開いてくださって神への感謝と祈りと讃美をも授けてくださいました。それまでは口にしなかった神の言葉を口にし、人に語るまでにしてくださいます。神の御言葉を聞けるようにし、神の言葉を語る口を利けるようにしてくださる。これがイエス・キリストを通して私たちに与えられる大きな恵みです。なぜなら、神の御言葉を聞くことによって初めて私たちは救われるからです。そしてそれを聞けたのは、神の御言葉を聞いて、それをさらに語り告げ知らせる多くの人たちの宣教と証しがあったからです(ローマの信徒への手紙 10章14、17節)。神の御言葉を聞かせていただいていることを喜び、そして私たちも神の御言葉を口にし、神への感謝と讃美を献げ、救いの知らせを告げる者とならせていただきましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「神による救いの物語」 2023.11.26
?ルカによる福音書 1章1~25節

「私たちは主に立ち帰ろう」 2023.11.12
哀歌 3章34~66節