「仕えるべき神を選びなさい」 2017.7.23
ヨシュア記 24章1節~15節

 ヨシュアは、イスラエルにとって偉大な預言者モーセの後継者として立てられた人物でした。神によって導かれて、目的の地、カナンへと入ってきたイスラエルの人々に対してヨシュアは語っています。モーセは、カナンの地を目前にしてヨルダン川を渡れず、ネボ山で120年の生涯を閉じました。ヨシュアはシケムに人々を集め、これまでのイスラエルの歩みを振り返りながら、改めてこれからの歩みを進めてゆくにあたって、自分たちの仕えるべき神はどなたであるかを再確認させています。ヨシュアとは「主は救い」という意味で、この名前がギリシア語に訳されると、イエス(イエースース)となります。

1.主がなしてくださったことを顧みる
 主はイスラエルの先祖であるアブラハムをユーフラテス川の東側から導き出して、カナンの地へ導いて来られました。そして、その土地をアブラハムとその子孫に与えると約束されました。後にアブラハムの孫であるヤコブの時代に一族はエジプトへ下って行き増え広がります。しかしエジプトで虐待されたイスラエルの民を、主はモーセによってエジプトから救い出し、このカナンの地へと連れて来られたのです。
 主は、主がなしてくださったことをよくよく顧みて、それ故に現在があるのだということを弁えなさい、と言われます。モーセやヨシュアの熱心によるのではなく、偶然によるのでもなく、明らかな主なる神の御心があって、全てのことが今につながっているのです。その最後の御言葉に、民が深く心に留めるべきことを主は言われました(13節)。主は、イスラエルの人々に、彼らが労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与え、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べさせてくださいました。これは実は、いつの時代、どこに国でも当てはまります。大昔からこの世では、強い者が土地を征服し、人々を支配し、自分の領土を確保してきました。そして、ここは自分たちの土地、領土である、と誇ったのです。そして他者が侵入して来ようものなら、敵として戦い、それを排除する。しかし負ければ土地も何もかも奪われる。こういったことを繰り返してきました。今でも、自分の土地と呼ぶものをたくさん所有している人々はいます。しかし、考えてみれば、地上の土地など、もともと人間のものではありません。土地も、そこにある岩も砂も石ころでさえも、その上にある草木も、川も、みな人が生み出したものなど一つもありません。人はただ、神が造られた土地に、住まわせてもらっているにすぎません。確かに、誰も住んでいない土地を開拓して、種を蒔き、作物を育て、家を建て、町を造ってきた、という人々はいます。そういう人々に比べればイスラエルが労せずして土地と町を得たのは確かです。しかし、労苦の果てに土地を得て町を建てた人々にとっても、土地や作物、町などは、本来神のものであります。人間は一時的にそれを預かり、管理を委託されている者に過ぎないことを忘れてはなりません。元々の土地の所有者である神を知らず、神を認めないがゆえに自分の土地だと誇るのが人間でありました。私たちもまた、そのことを忘れてはならないのです。

2.かつて仕えていた神々を除き去る
ヨシュアは、そのような主の御言葉を人々に伝えた後、今度は自分の言葉として語ります。今ここで、改めて主に仕えることを命じます。主を畏れ、真心をもって主に仕えるためには、先ずそれまで仕えてきた真の神でないものを除き去らねばなりません。それをせずに、主に仕えることは成り立ちません。
今日の私たちもまた、全く同じです。聖書において語っておられ、御自身をイエス・キリストにおいてお示しになった神を信じるということは、これまで信じてきたものに、新たに礼拝する神を加えるということではなくて、この神を、ただ一人の真の神と信じて、この神にのみ仕えることです。日本では特にそうですが、神や仏など、信じようとするものについて目に見える形で表そうとします。木や石で作ったものを神として信じる信仰がまずあります。また、木や石などそのものが神なのではないけれども、木や石で作ったものが、目に見えない礼拝対象を表しているというものもあります。仏像などはそうでしょう。
聖書では、どちらも禁じられています。真の神のみを礼拝しなさい、と言われています(出エジプト記 20章3節)。何らかの形を作って、それを神として拝んでもいけないのです(同4節)。イスラエルの人々は、山に登ったモーセがなかなか下りてこないので、金の子牛を作ってこれがイスラエルの神だ、といって礼拝をしたことがありました。そして山から下りて来たモーセを通して、厳しい裁きの言葉を受けたのでした(出エジプト記 32章4節)

3.自分たちの仕える神を選ぶ
 ここでヨシュアは人々に向かって、自分たちの仕える神を選びなさい、と言います。「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(15節)。ヨシュアは、民に自覚的な服従への意志を求めたのでしょうが、これは少々突き放した言い方です。本来は、イスラエルの人々にとっては、自分の仕えたい神に仕えてよいはずなどありません。自分の仕えたいと思う神に仕えるのではなくて、イスラエルをここまで導いてきてくださった神にのみ仕えるべきです。ですがヨシュアは、人々の選択に任せるような言い方をしています。これは、ただ上から命じられて従え、と言われて従うというよりも、これまでの主なる神の導きと救いを顧みて、自覚的に自主的に従う気持ちをもって、改めて主に従うという大いなる決断をもって、仕える神を選びなさい、ということです。
 そしてヨシュアは自分と自分の家は主に仕える、ときっぱりと宣言します。すると民は答えます。「主を捨てて、他の神々に仕えることなど、するはずがありません」(16節)。なかなかきっぱりとした立派な信仰告白です。しかし、この告白を受けたヨシュアは、厳しいことを言います。「あなたたちは主に仕えることはできないであろう」と(19節)。ヨシュアは民の信仰を見透かしていたのでしょうか。やはり私たちは自分が仕えたいと思う、という点に寄りかかっていては、だめなのだということを後に教えられます。実際、ヨシュアの死後、主がイスラエルに行われた大いなる御業を見た長老たちの存命中は、民は主に仕えたのですが、その後の時代の人々は主を捨てて周囲の国々の神々に従ったということが、ヨシュア記の次の士師記に記されています(2章12節)。そこには、人の決意の頼りなさが示されます。今日の箇所では、ヨシュアはあえて、仕えたいと思う者を自分で選ぶようにと言って、自覚的な信仰の決断を促しています。このような面も私たちの信仰には必要です。今まで信じて来た先祖伝来の宗教を捨てて、主に仕える決心をする。信仰の出発点においては、それはどうしても欠かすことはできません。それを曖昧にしたままでは、真の主なる神に仕えることはできません。しかし、そのような決意をもって、自分の仕える神は、聖書の示している主なる神だ、と選んだとしても、私たちは数多くの神々の中から好きなものをより分けて選ぶというわけではありません。聖書においてご自身を示しておられる真の神、主だけが仕えるべきお方であります。選びなさい、というのは、改めて主に仕える道に進みなさい、ということです。私に、また私たちにご自身を現してくださった主なる神こそ真の神として信じ従ってゆくのです。
 私たちに対して、主なる神はイエス・キリストとして、現れてくださいました。この方こそ、私たちの主であることを証ししてくださいました。そしてこの主にこそ仕えるべきである、と示してくださいました。こうして主に仕える道を与えられたことは、何よりの幸いです。そして、ヨシュアが言うように、私たちもまず自分自身が主に仕える、と決意するとともに、私の家も主に仕える、と言うこと。家族全員がクリスチャンであるか、一人だけであるか、どちらにしても、このことを祈り続けることを改めて始めなければなりません。主が自分に対してなしてくださった恵みを顧みることからそれは始まるのです。  

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