「信仰は成長する」 2017.7.9 
テサロニケの信徒への手紙二 1章1節~12節

 神を信じる信仰があるかないか。これは、その人の人生観・世界観に大きな違いをもたらします。唯一の神が存在していると信じて生きているか、そうではないか。人間の心の中にある思いや、言動、一切について見ておられる神がおられると信じているかどうか。大きな違いがあります。しかし、信仰は確かにあるとしても、その信仰の状態や程度には、人によって違いがあるということもまた事実です。そのことを心に留めつつ、今日、私たちに与えられている御言葉にまた心を向けましょう。

1.神への感謝の理由
使徒パウロがこの手紙を書いたのは、紀元1世紀の中頃、52年頃とされています。使徒言行録18章に、パウロがアテネの近くのコリントに滞在していた時の記事が書いてありますが、その時にテサロニケの教会の信徒たちに向けて書かれたとされています。主イエス・キリストが復活の後、天に昇られてから、20年ほど経っています。このテサロニケの信徒への手紙一、二は、パウロの書簡の中で最も古いもので、新約聖書という書物ができてゆく発端になったと言えるものです。その意味で貴重な書物です。
パウロたちが地中海の北側に当る地域で宣教をし、テサロニケでも宣教をしたのは、この手紙を書く数か月前でした。テサロニケは、ギリシャのアテネの北方、直線で300キロメートルほどの所にあります。パウロがこの手紙を書いたのは、テサロニケへの宣教から一年も経っていない時でした。そのような中で、パウロは、テサロニケの信徒たちの信仰が大いに成長している、と語ります。一年も経っていないのに、信仰は成長している、しかも大いに成長しているというのです。そういう意味では、信仰の成長は必ずしも年月の長短にはよらないと言えます。しかし通常は、ある程度の年月の中で信仰は成長し、成熟してゆくのもまた事実です。同時に、年月は経っても、成長せず、いつも学んでいるのに真理を悟れないでいる非常に悪い例をパウロは別の手紙で挙げています(Ⅱテモテ3章7節)。主イエスの弟子たちも、未熟な信仰を叱責されたことがありました。「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」(マタイ8章26節)
信仰の状態と程度や度合いにもいろいろありますが、信仰に入ってから長年月の経っていないテサロニケの信徒たちの信仰の成長を知ってパウロは、神に感謝しています。テサロニケの信徒たちの信仰が成長しているのは、ひとえに神の恵みと導きによっていることをパウロはわかっているからです。(12節)

2.お互いの愛が豊かになっている
信仰の成長はいろいろなところで「見える」ようになってゆきますが、それは、「お互いに対する一人一人の愛が、あなた方すべての間で豊かになっている」という点にも現れています。お互いに対する愛が豊かになるということは、信仰の成長がその背景にあるわけです。信仰に入っていない人たちの間でも、夫婦の愛、親子の愛、兄弟愛、友情、などはあります。隣人愛というものが多少なりともあります。ときには、どうしてそこまでできるのだろうか、という大きな愛で他者に仕えている人もいるでしょう。しかし、神と主イエスへの信仰に基づく愛は、人から出たものではなく神から出たものなのです。
お互い、というのはここでは信徒たち同士のことです。信徒たちは、信仰の経歴は短いけれども、自分たちは神によって命を与えられ、生かされていること、全ては神の御手によって創造され、導かれていることも信じていました。そして何よりも、ギリシャ、ローマの神々ではなく、ユダヤ人のイエス・キリストというお方、この方こそ神の御子、罪人の救い主であられることを信じたのです。
このような信仰に入ると、自分と周りの人々、世界と自分についての見方が変わります。それは、自分の存在と人生の中に、神というお方を中心に据えるようになるからです。信徒になったからといって、信徒以外の人々については何も考えないということはもちろんありません。隣人として、何よりもキリストによる救いを必要としている人として見るようになります。しかしここでは信者になった者同士が互いに愛するという点を述べています。そして、いろいろな人々がいるこの世の中で、キリストによって互いに一つの教会の中に結びつけられた者の間には、非常に強いつながりがあることを表しているのです。

3.神が信仰を成長させてくださる
 信仰の成長について考えてみます。パウロはコリントの教会に手紙を書いて言いました。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と(Ⅰコリント3章6節)。パウロが主イエスから直接任命された使徒であり、どんなに優れた教師、伝道者であるとしても、パウロという一人の人格の影響や才能、力によって、テサロニケの信徒たちを救ったわけではなく、パウロが信徒たちの成長の原動力になっているのでもありません。信徒たちが成長できるのは、神の御力によっています。
それを簡潔に述べているのが11節です。神が招いてくださって、それに相応しいものとしてくださり、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださいます。これはパウロの祈りであり願いです。それを祈っているということは、神がそれをかなえてくださる、と確信しているからであり、そうしてくださるのが神である、と言っているのと同じです。
さて、翻って自分たちのことを考えましょう。私たちの信仰の成長のバロメーターみたいなものはあるのでしょうか。礼拝出席の割合や、献金額で決まるのでしょうか。それらは、確かに信仰が成長した信徒たちにおいて、形をとって現われてくるものだとは言えます。しかしそれは他の信徒たちとの比較ではありません。神は一人一人の器と賜物をご存じです。なぜなら神がそれを授けたからです。私たちはそれを信じつつ、神が成長させてくださることを期待するべきです。自分の今の状態は、神が授けたものだから、この程度なのだ、というような白けた気持ちではなく、神が与えてくださった信仰が、教会の中で、置かれている生活状況や家庭の中で、光を放っており、さらに放っていくことを期待し待ち望むことが大事です。そのためには、信仰の成長を祈り続けることです。神の御力によって「信仰の働きを満たしてくださるように」祈るのです。丘を登ると見晴らしが良くなって今まで見えなかったものが見えてきます。信仰の成長も似ています。でもそこで完成というわけではなく、丘の上に立てば、さらに高い山や広い海原が見えるかもしれません。
そこから歩みが続きます。自分の信仰が未熟と思うでしょうか。あるいは自分の信仰の歩みは不完全で、完成には程遠いと思うでしょうか。そうだとしたら、それは健全と言えるでしょう。逆に自分の信仰の歩みは非の打ちどころがなく、だれよりも高みに到達している、もうこれ以上ないほどに完全に成熟している、と思うとしたら、それは危険であり誤っています。この世で、成熟しきって、完成してしまったら、そのあとはどうなるか。衰えてゆくだけです。しかし信仰に関してはこの世では完成しません。常に完成を目指して進んで行く道のりが続きます。それは時には急な上り坂であり、時には平坦であり、下り坂かもしれない。しかし下り坂のように見えても、一度下って次の高みに昇る前段階に過ぎないということもあります。常に祈り求めている者に、主は様々な道のりと経験の中で成長へと導いてくださいます。
そういうわけで、私たちは神の前にへりくだり、信仰の歩みが主に導かれ、互いの愛が豊かになってゆくことを祈り求めましょう。そのようにして一つの教会もまた全体として成長してゆきます。そのように教会として成長してゆくことを通して、この世に対する光として輝くことにつながることを信じましょう。

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