「人の心から出て来るもの」  2017.7.2 
マルコによる福音書 7章14節~23節

 救い主イエス・キリストは、何が清く、何が汚れているか、ということを神の前にどのように区別するか、ということを明確に判断しておられました。それはファリサイ派の人々や律法学者たちが考えているように、洗わない手で食事をすることや、外から帰って来たら体を清めるとか、そういうこととは異なることを示されました。ファリサイ派の人々は洗わない手即ち汚れた手で食事をすることは昔の人の言い伝えに背くことになると言いました。汚れた手で食事をすれば、食べ物も当然汚れるので、それを食べて体に取り込めば、当然その人は体の中からも汚れてしまう、ということになるわけです。そういう考えに対して、主イエスは人を本当に汚すものは何か、を教えられました。
1.汚すことの意味
 食べ物、つまり外から人の体に入ってくるものは人を汚すことはない、と主イエスは言われます。汚す、とは言った何を意味するのでしょうか。泥を塗る、という言い方があります。文字通り人の体に泥を塗るのではなくても、人の名誉を不当に傷つければ泥を塗ることになります。本来悪くないものを悪いものと見なして、偽ってそのように人に思わせたり、そのものが持っている価値を貶めたり、美しさを損なってしまったりすることも汚すことです。表面的な汚れをつけるというよりも、名誉に関する事、道徳的な面での清さに関することで、それを傷つけたり、損なうことを言うわけです。
 何かを汚す、という場合、相手は人であったり、神であったりします。または、団体の名誉であったりもします。ここでは特に主イエスは人を汚すことについて語っておられますが、人を汚すことは、神のかたちに似せて造られた人を汚すことですから、結局は神を汚すことにもなると言えます。
  しかし主イエスはここではおもに食べ物との関係から話し始められました。そして人を真に汚すものは食べ物などではなく、人の中から出て来るものこそ人を汚す、と教えられました。

2.すべてのものは清い
  外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない、と主イエスは断言されました。つまり何を食べようが、それによって人を神の前に汚れたものとすることはない、というわけです。宗教的に、神との関係で、食べ物が人を汚すことはないのです。しかしこのことは、ユダヤの人々にはなかなかわからないことだったようです。弟子たちも驚いたことでしょう。弟子たちも、ファリサイ派の人々ほどに昔の人の言い伝えを堅く守っていたわけではなかったにしても、普通のユダヤ人の感覚として食べ物の清いことと汚れていることとについては、それなりの知識と感覚をもっていたと言えます。
  主イエスは、18節と19節で同じことを述べておられます。外から人の体に入るものは、人の心に入るのではなく、人の腹の中に入り、そして外へ出されるのです。もちろん胃腸によって消化され、栄養分が体に取り込まれるのを私たちは知っています。しかしそれによって人の心を汚したりはしません。なお、19節の最後の言葉「こうして、すべての食べ物は清められる」は、新共同訳聖書は主イエスの言葉としていますが、これは議論のあるところで、例えば口語訳のように福音書を書いたマルコの言葉として訳しているものが多いようです。「イエスは、このように、どんな食物でもきよいものとされた」(口語訳)

   3.人の心から出て来るもの -それを清める神の恵みー
 それに対して、本当に人を汚すのは、人の中、つまり人の心から出て来るのである、と主イエスは言われます。出て来るものは「悪い思い」と言われていますが、ここで列挙されているものは、心の中の悪い思いばかりではなく、悪い思いそのものと、それによって行動に出て来るものと、両方が挙げられていますので、あまり厳密に区別する必要はないと思われます。とにかく、人の心の中にある悪い思いや考え、企み、そしてそれが言葉は行動になって外に出て来る。するとそれが人を汚す、ということです。
 ここには、人間というものについての聖書の見方があります。聖書の人間観です。人間の心の中にあるものは、もともとよいものなのか、そうではないのか。創世記に、ノアの時代の大洪水のお話があります。主は人が常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって心を痛められました。それで大洪水によって地上の人々を、ノアとその家族以外一掃されました。しかし洪水の後、主は言われます。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8章21節)。これは、生まれたばかりの時は清いけれども、周りの悪影響によってすぐに悪くなるというようなことを言っているのではなく、生まれた時から悪いものを持っているのです。
 このマルコ7章21、22節で主イエスが列挙されたものは、私たちの内にその原因となる罪があるのであって、それ故に、人の心の中から形をとって外へ出て来るのです。そしてそれが人を汚すとは、これらの悪、つまり人の内にもともとある罪というものは、すべて外へ向けて人に害をもたらすものとなる、ということです。
 私たちは、自分の内にあるもの(性質・人格)を人間の物差しで判断してしまいます。人と比べて自分をなんとなく良いものと思ったり、劣っていると思ったりします。しかし、私たちのことを正しく判断し、良いか悪いか、善か悪かを判定できるのは神のみです。「正しいものはいない。一人もいない」(ローマ 3章10節)という神の御言葉を受け入れましょう。ハイデルベルク信仰問答でも、私たちは自分の悲惨と罪を知らなければならないことを教えています(問2)。ウェストミンスター小教理問答は、私たちの罪の性質とそれによる悲惨とについて非常にはっきりと示しています。
 私たちの内にこの罪があるゆえに、私たちの心から悪い思いや言葉、行いが出てきます。そのことをよくよく私たちは知らねばなりません。人との比較ではないのです。名だたる悪人に比べれば、確かに私たちはそれほど悪くないように見えます。確かに神の前に大変重い罪とそうでない罪とがあります(ウェストミンスター小教理問答問83)。しかし罪は罪です(ヤコブ 2章10節)。強盗殺人は犯していないからといって神の前に大目に見てもらえるわけではありません。
なぜなら、救い主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかってくださったのは、私たちの罪を償い、贖うためだったからです。罪のない神の御子イエス・キリストに十字架にかかっていただき、償いとなっていただく必要があるほどの罪が私たちの内にあります。それが人を傷つけ、痛めつけ、汚してしまうことを認めましょう。神は、罪を悔い改めて主イエスを信じる者の罪を赦してくださいます。聖霊によって清めてくださる神の恵みがいかに大いなるものであるかを悟らせていただけるよう祈りましょう。

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