「恵みを信じて求める」 2017.7.16
マルコによる福音書 7章24節~30節

 主イエスは、ティルスの地方に行かれました。ここは地中海に面した地域で、ガリラヤ湖から北西に向かって、直線で50キロメートルほどの距離です。そこで、主イエスはユダヤ人ではない一人の女性に会います。彼女は異邦人である自分も神の恵みに与れることを信じて、大胆に主イエスに恵みを求めました。その姿から、私たちは二つのことを教えられます。一つは、大胆に主に求める積極的な信仰、もう一つは、神の恵みは民族的な枠などに縛られることなく、全世界を対象として注がれているのだ、ということです。

1.子供たちか、小犬か
 この女性はギリシア人でしたが、ユダヤ人のナザレのイエスの噂を聞いて、この方なら、悪霊に憑かれている自分の娘を救ってくれるに違いないと信じてやってきました。自分の娘の状態を少しでも良くする手段はないだろうか、と常に情報に対して敏感になっていたのでしょう。今日のように、何か大きなけがをしたとか、重い病気とかにかかった場合、専門の医師などに診てもらえる時代とは違います。おそらく、民間療法を行う人や、まじない師、魔術的を治療行う人、そして医師等いろいろな人たちがいたでしょうけれども、彼女は、イエスのことを聞きつけるとやってきてその足元にひれ伏したのでした。
 しかし、主イエスはそのようなこの女性に対して一見すると冷たいような態度をとられました。「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」子供たちとは、イスラエル人々のこと、小犬、とはそれ以外の人々のことです。旧約聖書の時代から、主なる神はイスラエルの人々を諸国民の中からお選びになり、特別に恵みを注いでこられました。イスラエルの人々は、今のイスラエルがあるパレスチナの地(カナン地方)に住んでいますが、先祖であるアブラハムは、元々はメソポタミア地方のカルデヤのウルという所から、神に召しだされて旅に出て、カナンの地にたどり着きました。そしてイスラエルの人々の祖先となり、後のイスラエルの人々は自分たちを、神に選ばれたアブラハムの子孫として誇りに思っていました。イスラエルは、神に特別に選ばれた神の民として、他の民族とは違うという誇りをもっていたのです。
 実際、神はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの人たちを導き出して、目的の地カナン地方を目前にした時、人々にモーセを通してお語りになっています。モーセはイスラエルの人々に言いました。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(申命記 7章6節)
 こういうイスラエルの人々は、神のみ言葉を与えられて、神の御心を教えられて生きる、という素晴らしい恵みの中に置かれていました。主イエスが、このギリシア人の女性に、子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない、と言われたのは、どういう意図からでしょうか。主イエスはイスラエルの人々だけが神の恵みを受けるべきだとお考えになっていたのでしょうか。しかし、主イエスは「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない」と言われましたように、イスラエル人以外に恵みを全く注がないと考えておられたわけではありません。ただ、御自身がユダヤ人としてイスラエルにお生まれになり、イスラエルの人々にまず神の御言葉を改めて教え、イスラエル人がまず神の前に悔い改めることを教えられました。そしてイスラエルの人々から全世界の人々へと神の御言葉が告げ知らされることをお考えになっていたのです。それで、先ずイスラエル人に教え、御業をなさり、恵みを注がれたのでした。順序がそうだったということです。すると、彼女は機知に富んだ答えをしました。自分たち異邦人を小犬にたとえ、へりくだった思いで、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言うのです。

2.小犬もパン屑はいただきます
彼女は、自分のことを小犬に例えることを厭いません。人を犬呼ばわりするのは、私たちの間でも、人を侮辱する言葉になります。主イエスが言われた小犬、という言葉は、普通の犬と言う言葉と少々違って、愛玩用の犬を表わす言葉です。そこに、異邦人も神の恵みを与えられるべきものであることを示す主イエスの気持ちが込められているようです。
この女性は、あたかも主イエスの深い御心をよく理解しているかのように、謙遜に、しかし大胆に主イエスに願います。彼女には、自分の言葉を受け入れていただけるはず、という確信があったのかもしれません。それはおそらく、これまでに主イエスがなさってこられた御業のことを耳にして、この方はきっと、異邦人である自分と娘にも、きっと恵みを注いでくださる、という期待があったからだと思われます。
このように大胆に願うこの女性に対して、主イエスは「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われました。「それほど言うなら、よろしい」とは、直訳すると、「その言葉の故に行くがよい」という言い回しで、口語訳は「その言葉でじゅうぶんである」と訳していました。主イエスはしつこい願いに折れてしぶしぶ許可したのではなく、彼女の信仰を評価してこう言われたのです。それはマタイによる福音書15章28節の並行記事を見るとさらに良くわかります。

3.イエスによる救いの福音は、全世界を対象としている
 ここで、このマルコ福音書の記事を歴史の中で見てみましょう。この記事は、既に救い主イエス・キリストの福音がエルサレムから始まって、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てまでも伝えられ始めて行ったキリスト教会の宣教活動を人々が知っている中で書かれました。これが書かれる20年も前に、主イエスは世界宣教を命じておられ、そしてそれが実行に移され始めていました(使徒言行録 1章8節)。ですから、このマルコ福音書の読者たちは、実際に教会がイスラエル以外の人々にもイエスによる救いの福音を宣べ伝えている中で、この記事を読んだのです。これを読んで、現に行われている世界への宣教の働きを見て、主イエスは、初めはイスラエルの人々に悔い改めを命じ、イスラエルの人々を中心に語っておられたけれども、もともと世界宣教がその御心だったのだ、ということを確認したことでしょう。
 今日、この日本にいる私たちは、キリスト教は日本古来のものではないと知っています。確かにこの地球上で福音が伝えられ始めて、千何百年も経ってから救いの福音に接しました。しかし、全世界という大きなまとまりのなかでは、イスラエル人もギリシア人も、日本人も、違いはありません。イエス・キリストによる救いは、地球上の小さな地域限定のものではないからです。
主イエスの地上での福音宣教はユダヤの地、イスラエルの首都であるエルサレムから始まりましたが、全世界の創造者である神は、全世界を対象として救いのご計画をお立てになりました。今の時代、紀元1世紀には考えられないほどの進んだ通信手段によって、情報が立ちどころに世界中に広がります。誰が何を言ったか、映像や写真が残っていれば確かな証拠となります。しかしイエス・キリストの福音は、人から人への口伝えにより、手書きの文書により、そして教会で礼拝が行われる中で、確実に今日まで伝えられてきました。それは聖霊の恵みです。そして主イエスは、今日に至るまでの福音の全世界的拡大を見通しておられました(マタイによる福音書 24章14節)。日本古来の宗教ではないとか、外国の宗教だとかいうような小さな枠にはまらないのが福音です。私たちも改めて、このギリシア人の女性のように、主の前にへりくだって、しかし大胆に求める信仰をもって、今日の日本で、自分たちの周りにいる人々の救いを求めてゆきます。それを妨げる種々の力を打ち砕く力がある主イエス・キリストの力強い御言葉を信じて恵みを求めましょう。

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