「万物を造られた方に出会う幸い」2017.5.7
詩編19編1節~15節

 今月は「真の幸いを求めて」というテーマで、4回お話をします。「幸い」とは何か、という問題がありますが、とにかく幸いなら、私たちはそれを手に入れたいと願うのではないでしょうか。しかし幸いをどういうものとして考えるかということで、随分違ってくるのかもしれません。<br><br>

1.「幸い」と「幸せ」<br>
 幸いと幸せ。この二つの言葉は、どちらかというと幸せという言葉の方がよく使われるかもしれません。幸い、というと少し硬い表現でしょうか。幸せ、というのは人がどう思おうが、自分が幸せだと感じているかどうかに重点があると思います。財産はなくても愛する人がいれば幸せだ、と思う人はいるでしょう。逆に、財産はあっても、毎日孤独なら幸せだとは感じないかもしれません。それに対して、幸い、とはある客観的な見方が入ってくるように思います。その人が主観的にどう思っているかではなく、その人にとって本当に良いことがその人に与えられるとか、身の周りに起こってくる、という面があります。もちろんそういう中で個々人が幸せを感じる、ということはあります。私たちが聖書から聞こうとするのは、「幸い」、しかも神から来る幸いについてです。自分が幸せだと感じるかどうかではなく、神がくださる幸いについて、私たちは聞こうとしています。<br>
 そして、もし神からいただく幸いのことを知ったなら、それが自分のためにも本当に幸いなことであり、その内に生きることが真の意味での幸せである、と言えるのです。<br>
 今日は、「万物を造られた方に出会う幸い」についてお話しします。私たちが今現実にこの世で生きていること。これは誰の目にも明らかです。しかし、どうして目に見えるものや、この世にある一切のものが存在しているのだろうか、ということになると、いろいろな考え方があることがわかります。私たちがここで聞こうとしているのは、人の声ではなく神の言葉です。神は何と言っておられるか。神は聖書という書物を通して、大昔からそのことについて語ってこられました。<br>
 これについて、聖書の最初にある創世記第一章に記されていますが、今日は詩編19編を朗読しました。古の詩人が神の創造について歌ったこの詩は、万物を造られた方である神について歌っています。天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。空を見上げた時に、ただ広く大きいなあ、と漠然とした感想を抱くのではなく、そこからある事柄を読み取っています。ただし、作者はすでに神を信じていた人です。ある時天を見上げてこの詩の内容を思いつき、天や大空が神の造られたものだという知識をその時初めて得たわけではありません。この詩人は神を信じる民の中で生まれ育ち、そして昔神が語られた言葉を自分も教えられて育ってきて、そういう中で神を信じる信仰をもって生きていたのです。そしてその信仰があるからこそ、このような詩を書けました。<br>
 だから、今日の私たちもただ黙って空を眺めていればこのような確信を得られるかというと、そういうわけにはいきません。私たちには残念ながらその力がない、とこれも聖書が教えています。だから神はこのように聖書という書物を昔から多くの人の手を通して書き残してくださって、それによって万物を造られた神の存在を知らせてきてくれたのです。<br><br>

2.万物を造られた神に出会う<br>
 万物を造られた方、神がおられるとしたら、私たちに何の益があるのでしょうか。万物を造られたのが神なのか、ただ長年月をかけて今の状態になったのか。これによって私たちの人生に何か違いがあるのでしょうか。それがどちらにしても私たちに何の関係があるのでしょうか。大いにあります。それは、この世界と私たちが密接に結びついていて、私たちのこの世での人生は、訳もわからずに放り出されたものではない、ということです。万物を造られた神がおられる、ということは、私たちの体や心、そして人間同士、そして人間と他の動物、自然界の様々な物事や出来事それら全てが一人の神というお方によって、一つのまとまりのあるものとして造られているということです(本日の週報囲み記事)。私たちに全てはわからなくても、全てを造られた神がおられる、ということは私たちに一つの安心感を生み出します。この世にあるもので、人間が作り出したものはたくさんあります。最新の電気製品などは専門家でないとわからないものがたくさんあります。調子が悪くなった時、作った人の所に持っていけば何とかなります。ある部品は何故そこにあるのか、ということも作った人は承知しています。理由もなく組み込まれている部品は一つもありません。この世界も同じです。すべての造られたものは、一人の神のお考えによって出来上がっているのです。<br><br>

3.万物を造られた神との交わり<br>
 そして、この詩編の最後を見るとわかるのですが、万物を造られた方である神と人間とは心の思いにおいて、つながりを持つことができるのです。人の心の思いが神のみ旨に適うように、という願いを作者は述べています。神は人の心を知っておられるので、人間と神は人格的な交流を持つことができます。神との人格的交流がないとしたら、それは全く味気ないものです。しかし神は私たち人間と、言葉によるやり取りを通して、人格的に交わりを持つことができるようにしてくださいました。そして、実はこの神は私たちの父である、とキリストは教えてくださいました(マタイによる福音書6章26、32節。ハイデルベルク信仰問答問26)。主の祈りで「天にまします我らの父よ」と呼びかけました。万物を造られた神は私たちの父であり、教会の礼拝で私たちに出会ってくださいます。人は神と比べれば不完全で、弱く、罪ある者です。人は神に背くことすらします(14節)。そんな私たちですが、神に対する背きの罪を神は清めてくださいます。この、万物を造られた方である神を知り、その神を父として信頼して仰ぎ、導いていただく。この父は決して子を捨てることがありません。この父である神に信頼して生きることが、私たちの真の幸いなのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節