「神の愛を知って生きる幸い」 2017.5.21
ヨハネの手紙一 4章7節~12節

 先日の新聞(5月13日の朝日土曜版)に、好きな言葉は恋? 愛?というアンケート調査の結果が載っていました。皆さんそれぞれに愛と恋についての受け止め方などを、人生経験をもとに書いておられて興味深いものがありました。「愛」が好きな人が六割ちょっと、残りが恋、という結果でした。愛の方が崇高で優越性を感じるという答えがあり、特に名前や県の名に愛はあるが(愛知、愛媛)、恋はなく、女性の名前で恋がつくのは少ない、という回答がありました。愛の優越性、崇高さが自由回答に散見されていたようです。恋には感情の集中や激しさを感じる、という回答もあります。熱しやすく冷めやすいのも恋かもしれませんし、好き嫌いによっているのも恋と言えるかもしれません。逆に愛は永続的で、好き嫌いを超えたところにあるとも言えるでしょうか。英語などは、恋も愛も同じLOVEで表しますから、日本語での区別は単語としてはないようです。

  1.聖書が示す愛
 では、旧約聖書は愛と恋について何と言っているでしょうか。やはり日本語のような二つの言葉の使い分けはないようですが、内容からみてみます。イスラエルの王であったダビデの息子にアムノンという人がおり、彼は異母姉妹であるタマルを愛していました(サムエル記下13章)。彼は朝毎にやつれていくほどでした。そして病気を装ってタマルにお菓子を作らせ、部屋に運ばせ、無理やり床を共にしてしまいます。しかしその直後彼はタマルに激しい憎しみを抱くようになり、追い出してしまいます。彼女を愛したその愛よりも激しかった、とあります(13章15節)。アムノンはタマルを愛した、とありますが、実はこれなどは激しく恋い焦がれた、というものでした。彼女のことなど少しも考えず、自分の欲求を実現しただけで、それが実現したとたんに憎むようになったのですから、実は愛していた、とは言えないでしょう。
 ほかに、男女の愛を記した雅歌という、詩の文体で書かれた書物があります。「わたしの恋い慕う人」(1章7節)という表現がありますが、「恋い慕う」という言葉は「愛する」と同じ言葉です。1章2、4節の「愛」はまた違う言葉ですが、いずれにしても言葉としてはあまり特に区別はないようです。新約聖書は、神の愛と、兄弟愛などにある使い分けがされています。
 今日朗読したヨハネの手紙一の4章7節以下には、神の愛について、際立った愛についての教えが記されています。ここには、愛とは何か、どこから来るのか、そして私たちたちはどうすべきか、が記されています。

2.愛は神から出るもの
 私たち人間の世界には愛があります。親の愛、夫婦の愛、兄弟愛、隣人愛など。親は子どもが生まれた時に、さあ、子どもが生まれたから今から子どもを愛するぞ、などといちいち考えたりしないでしょう。子どものためにとにかく世話をして、苦労して育てます。二日や三日、一年や二年ではなく、何年も同じようなことを繰り返しながら、その成長を見守りつつ育てていきます。生まれたばかりの赤ちゃんに、将来自分を養ってくれることを期待して育てる親はいないのではないでしょうか。赤ちゃんからは何も見返りを期待しているわけではなく、ただ可愛く、愛おしく、愛するがゆえに苦労して育ててゆくわけで、これは本当に尊い愛がそこにあると言えます。特に子を思う親(特に母)の愛は、「無償の愛」に最も近いと言えるかもしれません。
 しかしここでこの手紙を書いたヨハネが言っているのは、人間から出たものではなく、神から出た愛についてです。親は自分の子でしたら、通常は教えられたり命じられたりしなくても子を愛します。本来備わっているものです。そうできない親が多少いるとしても、通常はそうであるということです。しかし、そのような親の愛でも、やはり完全ではありません。悲しいことですが子どもの世話をしない親、捨ててしまう親も時にはあります。人間は、愛する存在ではありますが、不完全で足りない者であり、時には愛に反することもしてしまうのが現実です。それは、心の深いところで、愛の出どころである神から離れてしまっているからです。
 それに対して、ヨハネが言っているのは、神から出た愛です。人からではなく、愛は神から出たものである、と言っています。そして、愛は神から出る、というだけではなく、神は愛だ、とも言っています。神こそ愛そのもの、と言えるお方なのです。

3.罪人を救おうとする神の愛  愛そのものとも言うべき神は私たちのために何をしてくださったのでしょうか。神について、私たちが普通陥りやすい考え方は、私たちのこの世での具体的生活の中で、自分に対して何らかの良いことをしてくれているかどうか、で判断してしまうということです。確かに神は私たちの歩みを導き、助け、守り、支えてくださいます。しかし、日常生活の中でのあれやこれやの様々なことの前に神がしてくださったことは、神の独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わしてくださったことです。10節に、「わたしたちの罪を償ういけにえとして」とあります。これはイエスが十字架で死なれたことを指しています。イエスが十字架で死なれた(殺された)のは、神に対する私たちの罪を償うためでした。神は、神に背いて罪を犯している私たちのために、罪がなく、神の御心にかなっている神の独り子をあえてこの世に送り、罪人の私たちを救おうとしてくださっている。このことの内に神の愛が示されているのです。
 神は見ることができません。しかし、その神の愛は、イエス・キリストという方に現れました。そして、私たちがイエス・キリストを知り、そのなされた十字架の業を信じるなら、私たちの内に神の愛がすでに働いています。そして、互いに愛し合うようになる、と言うのです。親子だから、夫婦だから、肉親だから、というのではなく、神の愛によって生かされているもの同士だから愛する。そこに神の愛が留まっています。この神の愛を知って生きることが私たちの幸いです。神がイエス・キリストによって罪を償ってくださった者は、どんなに罪深くとも神の愛によって生かされている神の子どもです。それは何にもまさる私たちの幸いなのです。

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