「聖書の言葉を聞ける幸い」 2017.5.14
テモテへの手紙二 3章10~17節

 昨年尾張旭教会に来てから一年以上が経ちました。車でどこへ行くにも、ほとんど初めての所ですから、常にカーナビに頼っています。何度か行った所でも間が空くとまたカーナビに頼る、ということもあります。昔は地図を脇に置いて、わからなくなると車を止めてよく地図を見直さなければならない、ということがありました。私たちには生活上、いろいろな意味での道案内が必要です。特に道路に限るものではなく、役所に行っても、初めての大きなショッピングセンターに行っても、案内地図や経路案内が必要です。時間に限りがある場合は、ゆっくり自分で探すよりも、案内を見た方が早いのは言うまでもありません。余裕があるから行きあたりばったりで歩いてみようというのもいいですが、場合によっては時間の無駄になってしまうということもあります。では、私たちのこの世を生きてゆく人生という旅の中で、私たちを案内してくれるものは何でしょうか。

  1.人生の道案内
 私たちの人生は、一度きりです。何度か人生をやり直すことができるのなら、一回目は自分のやりたい通りにまずやってみて、それを反省し、経験を積んで、そして二回目に臨み、その経験を生かしてもってうまく二度目の人生を送る、などということもできましょうが、現実にはそんなことはできません。やり直しは利きません。
 そういう私たちですから、親は子供たちに自分の生きて来た経験をもとにいろいろなことを教えますが、親もすべてをわかっているわけではありません。ですから、多くの人の知恵や、長年の積み重ねによる生活の知恵などが集められて、格言などになり、習慣や、伝統、語り伝えられるものとしてそれぞれの国や社会や地域で伝えられてきたわけです。
 そんな私たちは、いったい何者なのか、ということについてやはり人はいろいろ考え、探求し、議論しあい、尋ね求めてきたのでした。そういう中に、いろいろな宗教もあります。しかし今、私たちはキリスト教会において聖書という書物を前にしています。今日は、この聖書が私たちに与えられている幸いを知っていただきたいと願います。そして、ほかの書物、特にほかの宗教の経典などとの比較をするのではなくて、聖書という書物そのものに目を向けたいと思っています。

2.聖書は神の霊の導きのもとに書かれた
 まず、聖書という書物を手にして気づくことは、たくさんの別々の書物を集めたものが聖書である、ということです。誰か一人の人が全体を書き通したものではありません。そうではなく、非常に長い期間にわたり、多くの人々の手によって書かれたものによって聖書は成り立っています。ただ一人の優れた人物の言葉ではなく、多くの人を介して語られた神からの言葉が聖書には書かれています。
神は万物をお造りになった方、天地の創造者です。この神は、この世に存在しているものすべてをお造りになりましたが、ただ造って放り出したのではありませんでした。神と言葉を介して意志の疎通を行うことのできる人間に対しては、初めは直接人間の言葉を用いて語られました。だんだんと預言者などの人を介して言葉を伝えるようになり、後には文字にして文書として人が読めるようにされました。文字に書かれていれば繰り返し読むことができ、内容も再確認できます。耳で聞くことは大変印象が強いものですが、残念ながら人間は忘れやすく、間違えやすいものです。初めは正しく記憶していても、時の経過と共に記憶が前後したり、一部を忘れたりしてしまいます。そういう私たちのために文書にして残すようにされたのが聖書です。
 聖書は神の霊の導きのもとに書かれた、とあります(3章16節)。これは、神が吹き出された、という言葉です。つまり神の息吹によって生み出されたのが聖書です。と言っても、実際に書いたのは人間です。その人間が直接神に語りかけられてそれを書きとどめた言葉がまずあります。さらに、神のなさったことを見た人が、それを記録として書いたものがあります。また、世の中で起こったこと、特に神の民とされたイスラエルの歴史の中で起こったことを書き連ねたものもあります。書物として出来上がった道筋は違っても、神が人に働きかけて今のような形としての聖書が出来上がるように導かれました。ですから、聖書という書物は、背後に神が全体の著者としておられる、と言えるのです。

3.聖書を手に取り、神の言葉を聞ける幸い
 聖書には一つの大きな目的があります。聖書によって教えられた人が、イエス・キリストへの信仰によって救いに導かれることです。そして、神を信じて神に仕えて生きる人が、正しく、善い歩みができるようにするためです(16、17節)。人として何が善で、何が悪か。人間の誰かが定義したわけではなく、人の中に良心というものがあり、それは歪んではいますがある程度全世界共通に善に対する感覚が神によって与えられているからです。しかし、人間はいつも善を行えるわけではありません。良心に頼っているだけでは不十分です。それで神は聖書によって神の考えを示してくださいました。善悪の確かな基準が与えられたのです。人間はそれを完全に守り行うことはできませんが、聖書の光に照らされて、何が正しく、何が神に喜ばれることかを知るのです。
 聖書は私たちに神の存在を知らせます。そして神の前での人間の姿を示します。そして神の前に喜ばれるように生きる道を教えています。キリストという救い主に神と人との間に入っていただいて、とりなしていただく必要性を明らかにしています。そして、その救い主キリストにより頼んで生きることが私たちの真の幸いである、と教えているのです。この聖書こそ、私たちの人生の誤りなき導き手、道しるべ、決して間違わない、永遠の命への案内者です。この聖書に聞けるのは真に幸いなことです。聖書には人から出た言葉ではなく、神の言葉が語られているからです。

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