「神は善い業を始められた」2019.6.30
 フィリピの信徒への手紙 1章1~11節

 今日は、フィリピの信徒への手紙から、救い主イエスキリストの救いの恵みに与った者に与えられる恵みについて、教えられています。この手紙を書いた使徒パウロは、紀元1世紀の生粋のユダヤ人であり、最初はキリスト教の迫害者でした。イエスは救い主、メシア=キリストである、とは全然思っていなかった人でした。むしろ反対にキリストを信じる人々を迫害し、捕らえ、牢屋に投げ込む、というばかりか、殺そうとさえ思っていたのでした。それほどまでに徹底した迫害者であった、パウロでしたが、彼は迫害の途上、天から語りかけて来られたイエスによって、新しくされて、キリスト教会の迫害者から、誰よりも多くの人に福音を伝えた宣教者とされたのでした。その使徒パウロがフィリピの信徒たちへあてて書いたこの手紙は、パウロの感謝と祈りが込められているものです。

1.福音にあずかっている恵み
フィリピの町は、今のマケドニアにあるローマの植民都市でした。使徒パウロは宣教を始めてから、まず小アジア地方で伝道し、そしてヨーロッパへと足を踏み入れましたが、その最初の伝道地がフィリピです。パウロにとっては 思い出深い土地であったでしょうし、その教会の人々のことは大変心にかけていたはずです。1章3節を見ると、パウロがこの教会のことを神に大変感謝し、喜んでいることがわかります。
その喜びの理由は、フィリピの信徒たちが、最初の日から今日に至るまで福音にあずかっているからです。最初の日、というのは、フィリピの信徒たちが、イエス・キリストについての福音を聞いた最初の日、ということです。神を信じ、キリストを信じるようになった人は、誰でもみな、最初に福音を聞いた日があったはずです。今信者になっている人も、最初に聞いた時は何も感じなかった、という人もいるかもしれません。もしかすると、反発する気持ちをもっていたかもしれません。それでも、その人は福音にあずかっていたのです。与る、とは共有する、同じものを分け合って受けていることです。今、信者になって、キリストの教会において共に生きている人は、福音を分け合って受けている。福音のもたらす恵みの内にあって、キリストがくださる恵みを共有しているのです。
そもそも、福音に与る、ということは、神からの恵みです。私たちが自分から首を突っ込んで与らせてもらったのではなく、自分では求めていなかったのに、何らかの機会を得て、福音宣教を聞いて、その教えに聞くようになってきた。それは実に、私たちの思いを超えた所で私たちに対して働きかけてくださった神の恵みであります。私たちがどんな環境で育ってきたか、どのようなきっかけで聖書の教えを聞くようになったか、それはいろいろです。しかし、神の御言葉に聞くようになった人、教会に連なるようになった人。そのような人はみな、神の福音のもとに招かれたのであり、イエスを信じるようになったならば、最初に福音を聞き始めた時から、福音に与り始めたのです。

2.あなたがたの中での神の善い業
 少し角度を変えて言うと、神はあなたがたの中で善い業を始められたのです。神はこの世にあるすべてのものを造られました。天地創造です。世にあるすべてのものは、神によって存在しています。それは特に神の創造の御業と言います。そして神は創造されたものを、摂理の御業と呼ばれる業で保ち、支え、導いておられます。この世界は決して無秩序の混乱の中に放り出されているのではなく、全ては神の御心と御業によって造られ、保たれ、導かれている。これが聖書の教えです。この世界のすべては神の御業によっているのであり、そこに生かされているのが私たちです。神の御業なしには、私たちはこの世に存在しませんでした。今、私たちは神の御業によって造られ、生かされています。そして神は、私たちをただ造ったのではなくて、ある目的をもっておられます。それは、神の像を与えられ、神から御言葉を与えられており、神の御心を理解できるようにされている人間が、神を知り、神に立ち帰り、神に従って生きるようになることです。そのことを通して、またすべてのことを通して神が崇められるためです。
 そのような、天地創造に始まる神の御業は、人間の創造に大きな重点があります。先ほど触れたように、人は神の御言葉を聞くことができます。しかし人間は神の戒めに背いて罪を犯し、堕落してしまいました。堕落した人間は神の御言葉に背くようになってしまい、そして自分の内に「罪」を抱えて生きていくようになりました。当初神がお造りになった人間の本来の姿から落ちてしまった。それが堕落です。そのままでは、人は神の御言葉を正しく聴き分けることができず、自分の進みたい方へと歩き出してゆきました。それが堕落後の人間の姿です。
そのような人間に対して、神は恵みをくださいました。恵みとは、神が無償で人に与えてくださるものです。何かの代償があって、その報いとして与えられるのであれば、それは報酬であって恵みではありません。人は神の恵みなしでは抑々生きることはできません。神はまずすべての人間に恵みをくださっています。それはこの世で生きてゆくために必要な飲食物、衣類を作る材料、家を建てる材料等自然の産物すべて。太陽の光や雨。心地よい風や風景。人の働きや生活を助ける家畜などの動物。これらの恵みは広く全世界の人間にくださいました。それゆえ、人間はたとえ神を信じていなくても、神の恵みをいただいて、この世の生活ができるようになっているのです。
しかし、先ほどふれたように、堕落した人間には別の恵みが必要になりました。それが今日の朗読箇所の6節で言われている「善い業」です。創造の御業も「善い業」には違いありません。しかし、人間の堕落のゆえに、創造の御業だけでは人間はいつまでたっても神の御心に適うようなものには至ることができない。これが堕落した人間の現実であります。ですから、もう一段別の恵み、つまり特別な恵みが人間には必要であり、それをご存じの神は、人間の救いのために最大限のことをしてくださいました。それが、人の罪を償うために、罪のない神の御子がこの世に来られて十字架で死に、罪の贖いをするということでした。先ほど使徒信条で唱えた一通りのことをなしてくださったのです。これは、神が私たちのためになしてくださった最善の業でした。しかも、これ以外では、私たちの罪を取り除くことはできなかったのです。最善以外の道はありませんでした。

3.神の業は必ず成し遂げられる
神がキリストによって私たちのためになしてくださった善い業には、続きがあります。神の御子が十字架で私たちの罪の贖いをしてくださっただけでは、神の善い業は完成に至りません。堕落した人間は、神のなさった最善の業を、自分たちのためであったと悟ることができなくなっていました。しかし神は、神のなさった最善の業を信じて受け入れる者を救うこととされました。堕落したとはいうものの、人間は動物たちとは違って、聖霊の光に照らされれば、神の御言葉と、神の善い業を理解できるようになります。神は、私たちを罪から救うご計画を実行して完成するために、まず御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりましたが、その次に、私たちがその神の善い業を悟り、信じ、受け入れることができるように、聖霊を遣わしてくださって、私たちの心を照らし、新しくして、罪の悔い改めと信仰へと導いてくださったのでした。これこそ、神が私たちの中で始めてくださった「善い業」です。この善い業は、私たちの中で始められたからには、必ず成し遂げられます。つまり完成されます。始めたけれども途中で完成できなくなってしまうということが、神にはありません。人間はそういうことがしばしばありますが、神にはそれがないのです。ここで言う完成とは、私たちの罪が完全に贖われて取り除かれ、私たちの罪が完全に清められて、私たちがもう堕落することがなく、罪を犯すこともない、完全に清められた状態になることです。もう決して罪を犯すことも神から離れることもない。それ故神の怒りによる、自分の罪の裁きを恐れる必要もありません。
それは、10節にある「キリストの日」に全て明らかになります。復活して天に昇られたキリストが再びこの世に来られて姿を現し、私たちのために神の国を完成される時です。その時には私たちがとがめられる所のない者となり、神の栄光をほめたたえることになります。つまり、神は約束された通り、ご自身が私たちの中で始められた善い業を完成してくださった、と私たちが神を讃美するのです。今は、私たちはその途上にあり、未完成です。しかし、必ず完成されます。今の私たちの中には罪の残りがあるので、時には自分の罪のゆえに嘆き悲しむこともあります。自分の信仰が頼りなく、あてにならないのではないか、と感じてしまうこともあり得ます。信じた者の集まりである教会なのに、なぜこのような問題が起きるのであろうか、と訝しく思ってしまうことすらあり得ます。しかし、この世ではなお未完成ではあっても、必ず完成されることを信じましょう。福音に与らせていただいた者は、福音によって必ず神の善い業の完成を見ることができます。それを見る力も神がくださいます。そして、この世では残る罪のために悲しむことがあるとしても、それにも拘らず救ってくださる神の憐れみと恵みとに感謝して、神を愛する愛がますます豊かになってくるのです。その神の特別な恵みを信じ、心からより頼む者とならせていただけるよう祈ります。

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